David Campbell, Writing Security書評⑥

sunchan20042005-09-08

【Chapter 5. Imagining America】

本章ではアメリカ草創期の歴史、すなわち大陸発見、植民地建設期、そして独立・共和政確立期のアメリカ史の中に、前章で述べられた「差異/アイデンティティ」の関係を見出す作業が進められる。もしベネディクト・アンダーソンが言うように、国家は全て「想像の共同体」であるとするなら「まさしくアメリカこそが想像の共同体である」(91頁)と見る著者の立場からすれば、アメリカ建国期の歴史は想像(創造)に満ち溢れている。コロンブスアメリゴ・ベスプッチなどアメリカ大陸にたどり着いた探検者らは、先住民を教化可能な未開人と見るか教化不可能な野蛮人と見るかにおいてそれぞれに違いがあったにせよ、先住民との遭遇を通して「自己」と「他者」の間の境界線を引いていった。そこで採用された分類軸はキリスト教徒/異教徒」「文明/野蛮」であり、前者が二つの間の移動が可能であるのに対し、後者はより固定的で、「野蛮」から「文明」へと移行するのはほぼ不可能と見る分類軸である。言い換えれば、後者の分類軸は、「野蛮」の殲滅行為をより正当化しやすいものとなる(103頁)。これらの分類を可能とする上で、現実の正確な観察や経験は必要とされない(102頁)。例えばイギリスがアイルランドを植民地化する際、アイルランド人が同じキリスト教徒であるにも関わらず、彼らは「異教徒」として分類された(106頁)。17世紀初めにメイフラワー号に乗ってやってきたピューリタンらは、植民地化は聖書の預言を実現することであるという「アメリカ神話」を創り出した(107〜108頁)。アメリカは自分たちだけのものであり、先住民は彼らが担う運命の障害物だと考えられた(108頁)。このようにして、「アメリカの想像」(Imagining America)によって、移住者たちは自己のアイデンティティを形成していった。また、「新大陸」アメリカには、ヨーロッパにおいて存在していたような打倒すべき古い秩序(財産や国教会など)がなかったため、自己のアイデンティティを形成する境界は曖昧となり、そのぶん異質な「他者」(アメリカ・インディアンなど)との差異の創出は熾烈になった(109頁、122頁)。

どの時代においても、「脅威の言説」には外部の脅威と内部の脅威の境界線が曖昧になるという特徴がある。アメリカ国内において、連邦政府の権力強化を支持する側(フェデラリスト)と君主制による中央集権化に類似したあらゆる動きに反対する側(リパブリカン)が独立戦争後別々の政党によって分裂した際、両者は二者の間の境界線の曖昧さを、相手側と敵国イギリスとの協力を指摘し非難することで克服しようとした(126頁)。しかしそうした「脅威の言説」には、なんら証拠が存在しないこともまた常に共通する点であった(127〜128頁)。しかし、たとえ外部と内部の脅威のつながりが現実のものではないとしても、そのような想像に基づいた言説が国内において大きな動きを生み出していったことは紛れもない事実であった。忠誠心の審査や、移民や扇動罪に対する厳格な法律の制定などがそうした動きの一例であった(129頁)。

Campbellが言うように、「虚構としての過去の表現」(131頁)とは、「想像の共同体」たる全ての国家が行うものであるが、ヨーロッパのような建国の基盤となる国も国民も存在しなかったアメリカにおいては、「徹底した歴史と地理の分離」(131頁)がなされた。時間よりも空間が特権化され、アメリカの歴史は「非歴史化」(de-historicized)され、アメリカと呼ばれることになった空間は「自由の地」として永遠の時間を与えられた(131〜132頁)。

次章でも同じように、冷戦期における国内政治の新しい見方が提示される。さらに続く章ではここ数十年のアイデンティティをめぐる争いが分析される。こうして次々に行われる主流の歴史解釈の相対化を見てわかるのは、過去についてのあらゆる言説がその虚構性を免れることはできず、言説の争いと共に発生する新たな権力関係(誰が語るのか)に着目しなければならないということである。ただ、前々から感じていることであるが、その先にどのような「対案」が待っているのだろうか。次章と次々章において異なる時代区分に本章の視点を適用することになるが、そのあとにはどのような理論的進展が望めるのだろうか。「それで?(So what?)」という問いにどう答えられるのかに自分は興味があり、それに対する答えはまだ見つけられていない。