重村智計『北朝鮮データブック』書評

「日本政治経済」の授業をアメリカで取ることになってからつくづく思うのだが、自分にとっては当然知っていたと思っていた、あるいは知っていて当然だと思っていたことを、実はほとんど何も知らなかったということに気づかされる。そして北朝鮮のことについてもそうである。93年に核拡散防止条約(NPT)からの脱退を国連に通告、核兵器開発の再開を表明したことで、アメリカは真剣に北朝鮮との戦争を考えたという。北朝鮮の核開発問題は日本の安全保障にとっても深刻な問題であるため、95年に発足した朝鮮半島エネルギー開発機構(KEDO)には日本も資金を拠出することになった。98年には弾道ミサイルテポドン1号」を発射、日本の領空を越えて太平洋側に着弾した。日本の世論は驚愕・憤激し、直後に日本政府は食糧支援を見合わせる。最近では2002年に小泉首相が訪朝し、初の日朝首脳会談を実現、その場で金正日総書記が拉致工作の事実を認めて謝罪。首脳会談の1ヵ月後に拉致生存者5人が「一時」帰国した。

このあたりの事情は新聞やニュースでよく聞き知っている範囲である。90年代を振り返るだけでも北朝鮮には、成果は乏しいながらもたびたび交渉を通して関与してきた。しかし、北朝鮮そのものについて一体どれほどのことが知られているのだろうか。国内の政治機構は?経済情勢は?北朝鮮の一般国民の日常生活は?娯楽は?何も知らない。断片的に面白おかしく取り上げられたものをたまに「消費」しているだけである。

この本はそういう当たり前の疑問にわかりやすく答えてくれる本である。「データブック」といいながら詳細な統計はあまり載せられていないのだが、これは北朝鮮についての信頼できる統計が極めて少ないことから来るもので、致し方のないことなのだろう。それでも北朝鮮国内の事情については、かなりわかりやすく書かれている。なぜこのような一般向けの本でさえ、北朝鮮理解にとって貴重なものなのか。それは戦後日本において、質の高い朝鮮半島研究が、イデオロギー対立のせいで生まれてこなかったからであった。

日本での「理念学派」の根底にあったのは、「社会主義」に対する幻想と期待であった。また、社会党などの政党が力を持っていたことも、北朝鮮についての批判的な研究を妨害した。何よりも、日本人の主体的な研究に圧力をかけたのは、北朝鮮を支持する在日の組織であった。どんなささいなことでも、北朝鮮について批判的な研究や言動をする研究者やジャーナリストに圧力をかけた。(略)私は新聞記者として、圧力、いやがらせ、悪口、誹謗中傷劇と常に戦わざるをえなかった。質のいい研究者は朝鮮問題を避け、こうして朝鮮半島研究の質と水準は、日本ではなかなか向上しなかった。(15〜16頁)

あまり知られていないことかも知れないが、1970年までは、北朝鮮のほうが韓国よりも豊かな国であった。しかし60年代から国際情勢が大きく揺れ動く中で、友好国からの支援が激減し、次第に経済難へと陥っていった。62年のキューバ危機のあと米ソ間にはデタントが訪れ、朝ソ間の関係は冷却した。また65年から中国を大混乱に巻き込んだ文化大革命が始まり、紅衛兵らが金日成を壁新聞で「百万長者、貴族、大ブルジョア」(146頁)と批判するようになる。北朝鮮は「自主路線」を宣言し、中国を「教条主義」と批判し始める。朝ソ関係と同時に中朝関係も冷却化した。このとき北朝鮮は、海外からの援助の70%をソ連・東欧諸国から得ており(145頁)、この東側陣営諸国との関係冷却化は北朝鮮経済に大きな打撃となった。

90年代に深刻化した食糧不足も、実際には人災であったことがこの本からわかる。95年に大洪水の被害に会い、田畑や備蓄食料が流されて餓死者が急増した。しかし、実際には食料不足はこの水害以前から始まっていた。その最大の原因は、金日成が主導した「主体農法」に忠実に従って、コメとトウモロコシしか栽培させず、冬場の麦の耕作を長いあいだ事実上禁じてきたからであった。

北朝鮮には貧弱ながらも娯楽があることも知った。テレビ、サーカス、映画は北朝鮮国民の重要な娯楽になっている。一番興味を引かれたのは大学受験制度である。出身身分によって大学教育を受けられるかどうか決められるのだが、受けられる若者たちの間でもかなりの競争があることを初めて知った。進学する大学によって将来がほぼ決まってしまうからである。大学卒業後は、金日成総合大学のエリートから優先的に労働党が就職先を決める。驚きなのは科目の名前であるが、大学入学前の6年間の高等中学校では、「偉大な首領金日成主席の革命活動」「偉大な首領の革命歴史」が主要科目となっている。(209頁)大学受験科目には数学、英語、国語などの他に「金正日同志の革命史」などがある。日本での小学校にあたる4年制の人民学校では、「敬愛する首領金日成様の子供時代」「親愛なる指導者金正日同志の子供時代」などが主要科目として教えられている。大学の合格通知は次のような文言になっているそうである。「偉大な首領金日成同志と親愛なる指導者金正日同志の政治的な信任と配慮で、○○大学に入学したことを通知します」(210頁)

今後北朝鮮はどう動いていくのか。最も深刻な問題は、金正日の「あと」が何も決まっていないことである。金正日金日成の後継者に決まったのが70年代前半。その後も北朝鮮上層部で権力闘争があり、金正日が後継者になることに反対であった勢力が存在していたことも確認されている。20年以上もかけて金正日が後継者になる準備をしてきたのである。それに比べて金正日の後継者はいまだ明確ではない。長男の金正男が有力候補とされているが、明確なことはまだ何もわからない。もし金正日にもしものことがあれば、北朝鮮の国内政治は大混乱に巻き込まれ、泥沼の権力闘争が始まる可能性もある。

最後に日本のとるべき対応について。重村氏の朝鮮半島理解と専門家としての知識には心から敬服しているし、毎日新聞を購読していた時の彼のジャーナリストとしての分析力にはいつも感心していたが、ただこの人の日本に対する提言には時々首を傾げざるをえないことがある。

日本人は軽々しく北朝鮮崩壊論を唱えるべきではない。また、軟着陸論の強調も問題が残る。北朝鮮をどうするかは、韓国と北朝鮮に住む人々が決める問題である。(237頁)

北朝鮮の運命をどうするかは、二千二百万人の北朝鮮国民か韓国国民が自ら決める問題である。日本人が手を下す問題ではない。(27頁)

しかし朝鮮半島情勢、とりわけ北朝鮮の核開発問題は日本の安全保障にとって最も重要な問題であるし、また北朝鮮が日本からの支援なしにやっていくことも不可能である以上、このような議論は少し両朝鮮国民に感情が入りすぎているようにとれる。別の箇所で「北朝鮮の行方を左右するのは、中国とアメリカである」(233頁)と述べており、それは間違いなく正しいだろうが、では中国とアメリカなら崩壊論や軟着陸論を唱えてもよくて、日本は唱えてはダメな理由は何なのだろうか。「過去の歴史」は感情的な議論を除いてはあまり説得力を持たない。崩壊した時のダメージはおそらくアメリカよりも日本のほうが大きいだろう。そういうことを議論しておくことは日本にとっても必要だろうと思う。根拠もなく危機を煽るような議論には逐一反論すればいいのであって、北朝鮮の将来については日本も積極的に発言するべきであることに変わりはないと思う。