勢古浩爾『目にあまる英語バカ』書評

目にあまる英語バカ

目にあまる英語バカ

本書のタイトルにある「英語バカ」の定義は、「英語を宝石のような、だれもが羨む『かっこいい』ことの証明であるかのような、自我の装飾物としてしか考えていない」(13頁)人間である。著者の立場は明快である。

英語は、不要なものまで巻き込んで、全国民的桎梏になっているから大迷惑なのである。学生さんは英語をやめるわけにはいかない。とりあえず、がんばるしかない。目標のある人もそうである。けれどがんばりきれないままに、学校を出てしまった人、成人になってしまった人、あなたにはもはや英語は不要である。(131〜132頁)

小学校からの英語なんてものも要らない。

英語が不要だといっているのではない。そこまでする価値を英語に認めていない。中学校からで十分である。(94頁)

どうしても必要な人はきちんと明確な目標を設定して、短期集中で取り組むしかない。他人や制度のせいにしても何も始まらないのだ。

英語ができないのは教育が悪いからだ、と責任転嫁してもなにもならない。はっきりいっておくが、英語ができないのは自分のせいである。できる人間は自分で勉強したのである。英語教育が影響ないとはいわない。教師によって科目に興味が持てなくなる、ということもたしかにあろう。あるが、所詮、それもまた責任転嫁でしかない。嫌いな教師がいても、自分で勉強するという道が閉ざされたわけではないからである。ようするに、自分が勉強をしなかっただけである。そう自覚する以外にない。先生が悪かろうと、教育がなってなかろうと、自分ができない責任をかれらがとってくれるわけではないからである。ただ自分に言い訳をしているだけだ。(151頁)

この本の中で最も強く首肯できたのは、「中高大で10年間も英語をやったのに簡単な挨拶すらできるようにならないのは、日本の英語教育がおかしいからだ」という主張のでたらめさを指摘した箇所である。

日本の英語教育が正しい、とはいわない。だが、あなたね、そもそも「中高大と一〇年も習った」のに、というのが真っ赤なウソなのだ。というより、あまりにも人口に膾炙しすぎた錯覚なのである。ちょっと胸に手を当てて、考えてみて。あなた、ほんとうに「一〇年間」ちゃんと英語を勉強しましたか。毎日一時間でも二時間でもいい、一〇年やったですか。一年でもいい。やったですか。どこの人間だ、おれは。いやわずか半年でもいい。やっちゃおらんでしょうが。(150〜151頁)

結局、だれもがいうように、「中高大学一〇年間やっても話せないんだから、だめだこんな英語教育じゃあ」も、「文法ばっかりだからなあ、もっと英会話重視にすればいいんだ」も、関係がなかったのである。世迷言だったのである。そもそも「中高大学一〇年間」英語を習ったけど、というのがまったくのウソだったんだね。一〇年間英語を「勉強した」のに、はさらに大ウソだったのである。(153頁)

会話学校や語学留学に対しても手厳しい。

勉強をするなら基本は独学である。だが、その覚悟がない人がいる。金を払わないと習った気がしない、という人間がいる。また、会話学校にいっているわたし、という姿がかっこいいと思っているらしいのもいる。語学留学、というのは体のいい、自己弁解である。遊んでいるのではない。目的が見つからないのではない。ちゃんと「語学」を学ぶ、という目的があるのだからね、という隠れ蓑にはなるのである。(193頁)

たかだか外国人となんか話してみたい、という程度の理由で、あるいは漠然と英語を習ってそれをなんか仕事に活かしたい、みたいな甘い理由で、大枚はたいて半年やそこらイギリスやアメリカにいくという根性がまちがっているのだ。前者なら、NHKで十分だし、仕事に活かしたいのなら、半年やそこらではものにならないであろう。
基本的に、独学する気構えのない人間に、人より秀でることなど無理である。努力はしたくないが、あんなふうになりたい、なんて、だいたい、なめすぎてるのだ。だから高い金を払って会話学校にいくのである。自分ひとりでは不安、金に見合っただけのものを獲得させてくれるだろうという甘い期待、金を使わないと自分ではなにもできない体質、金を出せばなにかをやっていると思える他人への見栄。英語云々よりも前に、その小金持ちのひ弱な根性から治せ、といいたくなる。(194頁)

いつもながら、勢古浩爾の「常識のある口うるさいおやじ」ぶりと、それこそ「そこはかとないユーモア」(157頁)があって、どの本も読んでいて楽しい。内田樹は「インテリ・リベラルおじさんは日本の宝」と言っていたが、それはまさにこういうおやじのことを言うのだろう。