小森陽一監修『研究する意味』書評

研究する意味

研究する意味

様々な分野で活躍している11人の研究者たちによる、自身のインタビュー時における問題意識、これからの研究のあり方(特に全員に共通しているのは、「9・11事件」以後の新たな問題意識の発生)、研究者をめざす若者たちへのアドバイス(苦言?)をまとめた本。常に批判的精神をもって現実の問題に介入しようとする彼らの姿勢はとても刺激的であり、この時期に読んで本当に良かったと思う。

基本的にこの11人が――明示的にせよ暗黙にせよ――共通して言っているのは、「これから研究者をめざす人は厳しいよ。就職も難しいよ。あなたがたの勉強量(読書量)はまだまだ全然足りませんよ。それでもやっぱり研究職をめざして頑張ってほしい」ということ。既存の知のシステムがボロボロと崩れ始めている時代において、研究をすることの厳しさと意義の大きさの両方を各自が熱く語っているのである。

11人全員が言及しているもう一つの点は、「学者はどこまで現実の問題に介入すべきか」という問題。これは昔から論じられてきた議論だと思うが、11人の意見は微妙に違いを見せている。基本的には、全員が自分の研究と現実のリンクを認め、「理論と実践の相互作用」を重視している点では共通していると思うが、その中では、苅谷剛彦(教育社会学)のように

私は大きな問題提供はしますが、教育実践レベルでの具体的な答えは禁欲する立場をとっています。具体的な答えまで言える自信をもっていないし、社会学の研究者としての役割を逸脱してしまうことになるからです(179〜180頁)

と論じる人もあれば、神野直彦(財政学)の

最近の私は、研究者としての役割を逸脱して発言しているところもありますが、それは人間には「自分に与えられた役割を逸脱する」という役割があると考えているからです。研究者に限らず、社会から与えられている役割をだれもが少しずつ逸脱していくことによって、世の中は変化していきます(278頁)

という主張のように、自身の研究と現実に対する問題意識が必ずしも関係している必要性はないという考えもある。この点については、岡真理(現代アラブ文学)もチョムスキーを引き合いに出しながら、以下のように述べている。

チョムスキーは映画『チョムスキー9・11』のなかで、言語学者としての専門が、彼の政治的な活動にどう影響しているのかと聞かれたとき、「何も関係がない。時間を取られるだけ、かえってマイナスの影響がある」と言っています。現実に対する批判的介入が、自分の専門的な研究を通してなされなければならない必然性はないわけで、そういう研究であってもかまわないと思います。(216頁)

個人的には苅谷の考え方に賛成であり、いくら現実を前にして魂を突き動かされても、研究者にとっては一定の自制は必要だと思う。研究者には研究者独自の「答えの出し方」があって、やはりそれは自分が最も得意とする分野で勝負すべきだと思う。自分にとってチョムスキーの政治的発言からほとんど得るものがないのも、そのあたりに理由があるような気がする。彼のそうした発言は、今では「一方の極端な例」として引き合いに出される以上の意味はないように見える。

以下では、自分が印象に残った執筆者別にその発言を引用しながら、感想を書いてみたいと思う。

金子勝
冒頭の小森陽一(近代日本文学)、高橋哲哉(哲学)、金子勝(経済学、財政学)の三氏による対談では、金子の意見が非常に刺激的だった。一般に「ケンカ屋」というイメージがあるそうだが、学問において徹底的にディテールを重視する姿勢には、読みながら強く賛同した。例えば以下のような箇所には大きく肯いてしまう。

私のゼミの大学院生には地道な実証をやらせています。最初は不満だったようですが、ようやく意味をわかってもらってきた。ディテールを語れないで、その領域をわかったような気になるのが一番まずいのです。拠点となる学問は極めないとダメだし、基礎学力も最低限必要です。研究者のルールも知らないといけない。(39〜40頁)

やはり既存の領域のルールのなかで勝ち抜けないかぎり、残念なことに説得力がない。だから、目覚めた人が禁欲する大事さがわからなければ、研究者としては大成しない。(43頁)

若い人はディテールを詰めてほしい。言葉の解釈をしながら、論理の対立軸を解剖していく。そうすると、じつは立証できないシロともクロとも言えないギリギリの領域が見えてくる。それを見たことがない人はダメなんです。結局、論理では解決できない領域がある。人間の感性であったり、心理であったり、いろいろな問題が出てくる。そこにたどりつくまでを、大学院に入ったら必ずやることです。そういう能力がないと、すぐにあげ足をとられてしまう。(58〜59頁)

ディテールを全然詰めてないくせに、いまはやりの理論を振り回すペダンチックな人がよくいるが(自戒も込めて)、それでは全く通用しないという意味だろう。

小森陽一

一〇年前はクラスで一年間に読んだ本が三〇〇冊ぐらいだったのが、いまは三〇冊ぐらい。すべてがマニュアル化し、すぐに答えが出ないと気がすまない。このままでは解答を求めるだけの思考回路になってしまうと、先生たちが嘆いています。低学年から塾に通っているので、小学校時代で自前の思考力がつぶされている。考えるということは、すぐに解答が出てこないということです。改めて考える訓練をやらなければならない。(68頁)

グーグルなどの検索機能を使って、疑問に思ったことに対してすぐに答えが出てしまうのを当然のことと考えている若い世代にとっては、なかなか答えが出ないという状態は極めて居心地の悪いものに感じられるのではないだろうか。しかし、現実の問題でシロクロはっきりと解答が出るものというのはむしろまれであって、しかも「100点満点の解答などない」という結論に至るまでには、長く苦しい「考える」というプロセスが必要とされるのである。小森の「考えるということは、すぐに解答が出てこないということ」というのは、その通りだと思う。

大澤真幸(比較社会学

私は学生に、学問を積み重ね、それをもとに充分に考え抜いたならば、通り一遍のことより深いことが言えるのだということを示したいと考えました。「9・11テロ」のような、だれもがショックを受け、その本質を知りたいと思っている出来事について当たり前のことしか言えなかったら、学生はもう学問をしません。私が少しでも深いことを話しているなと学生が思えば、学問の蓄積の上でものを考えると、深いことまで洞察できるのだなと、学生は思うに違いないのです。(81〜82頁)

終わりのほうで大澤が言及しているように、テレビやマスコミに出ている学者の解説は、素人目から見ても首を傾げざるを得ないような発言だったり、明らかに的外れなことを言っていたりすることがよくある。それはまさしく、その領域において「学問の蓄積」がまだ全然足りないからであり、そうした蓄積のない領域に置いて発言を求められるものだから、「通り一遍のこと」しか言えない。学問に携わる者とは、誰もが関心を持ちながらも、適切な言葉を与えることができずにいるような問題に対して、誰もが腑に落ちるような言葉で問題の本質を明示的に語ることができる人なのだと思う。

人は批判するとき、批判の対象を矮小化したくなるものです。オウム批判でも、そういう傾向が見られた。しかし、オウム信者がいかに「つまらない」連中かと強迫的に主張するほど、自分がオウムにインパクトを受けていることが明らかになってしまう。なぜ、それほど「つまらない」ものに対して、ネガティブであろうがポジティブであろうが、ショックを受けるのでしょう。相手を克服するためには、相手の言説をもっとも好意的に、もっともポジティブに、もっとも可能性の高いところでとらえて、そこを乗り越えることが大切なのです。僕らがオウム的なものを乗り越えるときにも、そうしなくてはなりません。(101頁)

大澤のこの意見にはとても感銘を受けた。歴史認識をめぐる論争にせよ学力低下問題にせよ、感情的で品のない罵倒の応酬がうんざりするほど巷にあふれている現状において、「相手の言説を最も可能性の高いところでとらえつつも、それを乗り越える」という考えはとても新鮮に響いた。とは言っても、やはり「言うは易く行うは難し」で、おそらくはこれからも「批判の対象を矮小化する」人たちが多数派を占めていくのだろう。

これからいい仕事をしようと思えば、既存のものが説得力を欠いていますから、必然的に新しい仕事になります。その場合、既存のものは勉強しなくてもいいかというと、そうではありません。戦略的にも必要です。
新しいことをやろうとすれば、かならずコンサーバティブな勢力に批判されたり、拒絶されたりします。そのときに、コンサーバティブな勢力がもっているツールを全部マスターしていることを見せることが重要です。向こうがもっているツールをこちらが向こう以上につかいこなせることがわかると、向こうもひるみます。新しいことをやろうと思えば思うほど、伝統的な学問についてよく知っていることが必要になるのです。(106頁)

これも非常に感銘を受けた発言の一つ。全くその通りだと思う。他の人たちも違う言葉で同じことを言っているが、やはりまずはある一つの専門分野でその分野を完全にマスターすることが必要だということ。「型破りになるには、まずは型を自分のものにしなくてはならない」という名言があるが、言いたいことはそれと同じだろう。

藤原帰一(国際政治、比較政治)
自分の専門である国際政治において第一線で活躍する研究者として、藤原の書くものについてはいつも関心を持って見ている。その主張の全てに同意することはできないが、分野を横断して新たな知を生み出そうとする彼の姿勢には共感している。
ここで彼はこんなことを言っている。

マスター(修士課程)では、その分野の一般的な本を批判的に読むことと、資料読解といったスキルを身につけることが中心になります。ドクター(博士課程)では、基本的には自分との闘いになりますが政治学の分野はどうしても才能の問題があります。いくら努力してもブリリアントな発想になかなか恵まれない。才能がある人はかぎられています。あえて言えば、自分に才能がないことに耐えながら、根気よく自分が研究したい課題を見つけることが、ドクターのときの最大の課題です。(132頁)

いま、国際政治の研究者になりたいと考えている人は、本当に研究者になれるのかどうか、おそらく自信がないと思います。しかし、自分に能力がないという不安感と一〇年間闘う根気があれば、研究者になれると思います。ただし、安易な闘い方だと一〇年間もたないでしょう。(135〜136頁)

なんだか暗澹たる気持ちになる文章ではある。しかし、おそらくは彼自身がそういう不安感と闘ってきたからこそ、そう言えるのだろうと思う。そしてきっとそういう不安感は今も続いているのではないだろうか。

竹村和子英語圏文学)

学生にとっては、何か一つ(以上)の研究領域をみっちり、ものにしておくことが重要です。アメリカの研究者に専門を尋ねた折に、「テレビ表象で訓練を受けた」という答えが返ってきたのに驚いたことがありました。「訓練を受けた」という言葉に反応したのです。領域横断的な視点をもつには、フワフワと拾い読みするのではなく、自分の得意領域の基礎研究をしっかりしておくことが大切だと思います。(158頁)

これは金子や大澤が言っていることを違う言葉で言ったものだろう。その通りだと思う。雑読ばかりしていては基礎研究のマスターもままならない。

学生と面談しているとき、「考えてはいるが、書けない、書いていない」という言葉をよく聞きます。たしかに初めはそのとおりですが、じつは「書けない」ということは、「考えられていない」ということなのです。実際に書いてみると、自分の考えがいかに印象的なものでしかなく、自家撞着を起こしていたり、まったく論が破綻していたり、あるいは先行文献の理解が不十分なのかがわかります。極端な言い方ですが、「書かれたものしか、考えられていない」とさえ、わたしは思っているのです。(159〜160頁)

この点も賛成である。いくらすごいことを頭の中で考えていても、それを何らかの形でアウトプットしなければ、考えていないのと同じである。「自分がよりよく生きること」だけを目的として思考しているのなら話は別だが、学問の世界において自分の主張の妥当性を世に問うことを目標にしているのであれば、やはりアウトプットは絶対しなくてはならない。

苅谷剛彦

いかに常識的な見方、ステレオタイプ的な見方から離れるか。離れたときに、日本ではやったポストモダニズムが陥ったようなニヒリズムにならないで、もう一度問題を共有し、一緒に考えることができるような、「知を開く」ことにつながるようなコミュニケーション能力を、学生たちや研究者をめざす人には身につけてほしいと思います。(187頁)

この「コミュニケーション能力」というのは、具体的には外国語の習得とそれぞれの分野における基礎研究の精査、そして隣接する関連領域に対する関心を閉ざさないこと、という原点に還ることを意味しているのだろうと思う。

もうひとつ、自分が研究者になるのにコストがかかっていることを自覚することは、研究者のアカウンタビリティにつながります。研究者になるのに社会的なコストがかかっていることに自覚的であることは、大事なことです。(190頁)

この点について、苅谷は別の箇所でもっと具体的に話している。

自分が研究者になれたことのコストは、他のことにも転嫁できた資源です。アメリカの犯罪をなくすキャンペーンに使ってもいいし、恵まれない子どもに食費としてあげてもよかったのに、私に研究をしろとお金をくれた。他に転嫁できたコストだと思ったときに、研究をとおしてコストに見合う成果を出したいという意識がすごく強くなりました。
いまの学力調査の研究は、科研費で行っています。この何百万というお金を、たとえば学力低下で困っている子どもの補習授業の費用に充てれば、何人かが救えるかもしれない。しかし、そうしないで、私にこの研究をやりなさいと日本学術振興会がお金を出している。税金ですから、研究成果は世の中に返すしかありません。(185頁)

自分が研究できているコストは社会が支払っているというこの謙虚な姿勢は、学問の中立性とは矛盾しない。むしろ、「学問の中立性」を隠れ蓑にしてアカウンタビリティを回避しようとするほうが問題だろう。結果として、苅谷の研究は、同意する人にとっても批判する人にとっても、研究者自身の顔が見えるものになっている。

■岡真理
先に引用した、学問と現実問題の関わりについての彼女の発言が印象的だったが、その他に、長い非常勤講師生活を経験した彼女が放つ棄て台詞も印象的だった。

非常勤講師だった八年のあいだ、いつ就職できるかわからない、もしかしたら来年かもしれないし一〇年後かもしれない、あるいは永久に就職できないかもしれないという状況に置かれていました。将来設計もできないし、経済的にも非常に不安定でした。しかし、そういう生活をしたことは、職を得たいまでは、いい経験だったと思います。大学を運営するために必要不可欠な要素でありながら、大学がいかに非常勤講師の搾取のうえに成り立っているかということを身をもって理解できましたから。(213頁)

吉見俊哉社会学、文化研究)
カルチュラル・スタディーズが、機能主義的マスコミ研究における「効果理論」と、文化帝国主義批判・文化産業論の両方を批判するものであることをここで確認。
研究者を目指している人にとっては厳しい言葉もあった。

最近とくに感じるのは、問題意識をもち、おもしろい観点を身につけているけれど、理論的な構築力――順序立ててものごとを分析していく能力――が不足している大学院生が急激に増えていることです。それは才能というよりは能力で、きちんと修練をすれば身につくものです。もともと、大学の学部レベルでこの種のトレーニングは済ませてきているべきなのですが、どうも実態は全然そうなってはいない。とくに、いまの大学院生は圧倒的に読書量が足りない。問題意識は、何と出会い、どういう生き方をしてきたかという、その人のセンスがかかわってきます。その問題意識を言葉に表せるか、理論的に語ることができるか、論文にできるかは、才能というより修練にかかっています。要は、どれだけ本を読んできたか、それだけ自分の力で物事を考えてきたか、どれだけ文章を書いてきたかなのです。(237〜238頁)

もちろん、先人たちの本さえ読めば研究者になれるとか、いい研究ができるというわけではまったくありません。しかし、スポーツ選手に基礎体力が必要なのと同様に、研究者にも基礎体力が必要なのです。(238頁)

専門分野において「圧倒的に読書量が足りない」のは自覚している。当然のことだけれど、やはり学問に王道はない。

研究することは、自分の理論的な枠組みと、自分が実際に現場に入って経験し感じるアクチュアルなリアリティとのインタラクションです。(239頁)

研究にするには、自分のアクチュアルな問題意識を、それぞれの専門領域の内部のいかなる批判にもくじけないほどに理論的に洗練させ、しっかりとした言葉をこれに与えていくという媒介的な操作が必要です。そのためには相当の勉強をしないと、回路は見つかりません。回路を経ないと<学問>にならず、「オタク」になってしまいます。(241〜242頁)

これも、「まずは一つ(かそれ以上)の専門分野をしっかりものにしなくてはならない」という竹村の意見と通じるものだろう。いきなり奇抜なことを言っても誰も耳を傾けない。先行研究の蓄積の中にある理論的枠組みを体得してからでないと、ユニークさも生まれ得ない。臼杵陽も(苦言としてではあるが)同じ意味合いのことを言っている。

いまの学生たちを見ていると、先行研究をあまりにも軽んじています。膨大な蓄積の上に乗っかるのではなく、思いつきで食いついて「ユニークな研究」だと思い込んでいる。(264頁)

神野直彦
学問について、神野は少し抽象的だが本質的なことを述べている。

<真実>はいつも、現状を否定します。<真実>は、現実に存在するものにとって都合が悪いからです。<真実>に忠実であろうとすると、批判的にならざるを得ません。(中略)ですから、<真実>を語ることは、つねに既存のものを否定することにつながります。現在のシステムによって利益を受けている人びとにとっては、<真実>はつねに都合の悪いことになります。(277頁)

だから、学問で<真実>を追求しようとすれば、それは抑えがたい批判精神を伴うことになる。

「学問の深さと幅は比例する」というのが私の考え方です。幅を狭くすれば深まるものではありません。学問は幅を広げると深まるのです。(280頁)

これは一般の認識とは異なるものかも知れない。専門がますます細分化されてタコツボ化しているのを肯定する現状に対して、「それで学問が深まるわけではない」と言い切れる人はあまりいないと思う。そのような認識から、研究成果を与え合うこと、すなわち研究者間の分野にとらわれない交流が必要だと説くに至るのだろう。

研究の世界では、ため込むことは意味がありません。与えることにこそ意味があるのです。それぞれの個性にもとづいて、分析視角や対象、開発したものを、他者に与え、他者からも与えられることが重要です。(287頁)

本書は研究者へのインタビューによって構成されているので、研究者から見た「研究する意味」を論じているものである。従って、研究者ではない人たちから見れば、異なった「研究する意味」があって当然である。それでも、当事者たちが若者に向けて研究の意義を説くという本書の趣旨は達成されていると思う。厳しい道であることに変わりはないが、それでもやっぱり研究者を目指してみたいと思わせる本である。