三木谷浩史『たかが英語!』

たかが英語!

印象に残った箇所を以下に引用。

三木谷氏の英語勉強法

 僕が英語の勉強を本格的にはじめたのは、大学を卒業して、日本興業銀行(現・みずほ銀行およびみずほコーポレート銀行)に就職後まもなくだった。興銀の留学制度を利用して、ハーバード・ビジネス・スクールに留学したいと思ったからだ。先に留学して帰ってきた先輩たちの話に刺激を受け、自分も彼らのようにハーバードで学び、ゆくゆくは世界を股にかけて活躍するビジネスマンになりたいと思ったのだ。

 毎朝6時半に出社して、当時、興銀の地下に設置されていたLL教室(Language Laboratory教室。外国語学習のための視聴覚設備を整えた部屋)に直行し、始業時間の8時20分まで英語を勉強した。昼休みも食事を早めに済ませて30分、仕事が終わってからも飲みに行く日以外は英語の勉強に費やした。といっても当時はバブル全盛期で、ほぼ毎日飲みに繰り出していた。それでも新入社員にとって、一日1時間から2時間の勉強時間を捻出することはそれほど難しいことではなかった。

 週に1〜2回は英会話教室に通ったり、外国人の知人の奥さんに個人授業をしてもらったりもした。週末も英語を勉強した。歩行中はウォークマンアルクヒアリングマラソンを聴いた。こうした努力が実を結び、就職して1年半経った頃、アメリカの大学への留学に必要な英語力を判定するTOEFLで基準点をクリアした。行内の選抜試験を経て、入行から3年目、念願のハーバード・ビジネス・スクールへ留学することができた。

 留学のための英語学習にかかった費用はすべて自費でまかなった。身銭を切ったからこそ、僕は英語をなんとか身につけることができたと思っている。(55-56頁)

仕事ができる人は、英語を使う環境に置いてやればできてしまう

 「英語の得意な人が評価され、仕事ができるのに英語はできない人は評価されなくなるのではないか」と言われることがよくある。

 TOEICスコアが昇格要件に組み込まれているくらいだから、楽天では英語の得意な人が評価されるんじゃないかと思われるかもしれない。しかし、英語はあくまで昇格要件の一つに過ぎない。

 英語だけできても無能な政治家や仕事のできないビジネスマンは多くいる。ただ一方で、ビジネスセンスのある人は元々英語を勉強している人が多い。また、仕事ができる人はタイムマネージメントもしっかりしているし、地頭が良かったり、ロジカルだったりすることが多いので、いままで英語はやってなくても、英語を集中して勉強してもらい、使う環境に置いてやればできてしまう。また、学生時代などに何かに集中して何かしらやり遂げてきた経験のある人ほど、英語の習得が早かったりする。(108-109頁)

英語が特殊能力ではなくなり、英語だけでうわべをとりつくろってきた人は通用しなくなる

 英語化プロジェクトを進めるうちにわかってきたことがある。

 それは、英語力が特殊な能力ではなくなるということだ。みんなが英語をしゃべれるようになるので、それまで英語が得意で目立っていた人も、周囲に埋もれて目立たなくなってしまうからだ。

 英語のコミュニケーション能力のおかげで、うわべをつくろってきた人は、英語ができる人ばかりの環境では、通用しなくなるだろう。うわべははがされ、仕事の実力によって評価されるようになる。

 結局、英語は基本的なコミュニケーションツールに過ぎない。たかが英語なのだ。(109-110頁)

英語で直接外国人とコミュニケーションすることで得られる恩恵は計り知れない

 もし僕が興銀時代、英語を必死に勉強して、HBS(ハーバード・ビジネススクール)に留学すること なければ、楽天のようなビジネスモデルは生まれなかったと断言できる。楽天の誕生と英語には深いつながりがあるのだ。

 楽天誕生のときだけではない。僕の英語力は、その後の楽天の成長にも大きな役割を果たしていると思う。

 今では当たり前になっているポイントシステム「楽天スーパーポイント」も、事前にHBSのマーケティングの教授おも議論した上で、2002年に導入した。(134頁)

 最近でも、アメリカの大手IT企業で要職についている、あるインターネット技術の開発者とは定期的に会っているし、シリコンバレーなどにいるベンチャー企業や大手企業のトップマネージメントとは積極的に直に会って交流する機会を作っている。彼らとの話からは、今ネットビジネスの最前線では何が起きているのか、彼らはどんなことを考えているのかといったことや、アメリカにおけるインターネット技術の最新動向といった、きわめて有益な情報を得ることができる。

 英語で直接外国人とコミュニケーションすることで得られる恩恵は計り知れない。このことを僕は身をもって感じていた。これも、僕が楽天の英語化を決めた背景の一つだ。(135頁)

英語教師は英語がペラペラでなければならない

 日本の英語教育の根本的な誤りとは何か。その一つは、英語教師が英語をしゃべれないことだ。

 少なくとも中学校、高校の英語教師はすべて、外国人か、英語がペラペラの日本人と入れ替える必要がある。それだけで日本の英語教育は劇的に良くなる。

 授業では、日本語は一切使わず、英語だけを使うべきだ。最初はぎこちないやりとりになるかもしれない。しかし、ジェスチャーを交えて、言いたい内容を伝えることはじゅうぶんできる。手を上げる動作をして、“Raise your hand.”と声に出し、何度かくり返せば、“Raise your hand.”は「手を上げなさい」ということなんだな、とだんだんわかってくるものだ。まどろっこしいようだが、このやり方のほうが、結局、英会話の習得は早い。(165-166頁)

 僕は、英会話において最も重要なのは、頭の言語モードを切り替えることだと思う。日本語モードから英語モードへ切り替えるのだ。大人になってから英会話を学ぶときにも、この切り替えを意識すべきだろう。

 役員会議の中で、「ここは日本語でもいいですか?」と弱音を吐く役員がいても、僕が決して認めなかったのは、この言語モードの切り替えを徹底するためだった。相手が何とか答えるのを待つか、僕が、君の言いたいことはこういう内容のことかと助け舟を出す。時間は余計にかかるが、絶対に必要なプロセスだと考えている。(166頁)

 僕は、日本人の英語は下手でいいし、流暢にしゃべれなくてもかまわないと思っている。そもそもネイティブスピーカー並みに話せるはずがないし、話せる必要もない。できないことを恥じることもない。大事なのは、自分の持っているボキャブラリーを使って表現しようとする努力だ。(166頁)

 言語モードの切り替えに慣れるには、英語しか使えない環境に身を置くしかない。だからこそ英語教師は、英語がペラペラでなければならないのだ。
 英語の話せない英語教師には別の科目に移ってもらったほうがいいだろう。彼らを教育し直すのは時間と金のムダだ。
 いや、本当は、英語の話せない教師は即刻クビにすべきなのだ。雇用保障があるから解雇は現実には難しいのだろうが、率直に言って、日本の将来を担う子供たちを任された英語教師が、英語をしゃべれなくてもクビにされないなんて、僕には納得できない。(167-168頁)

英語を学ぶ本来の目的は、英語圏で通用する英語を身につけること

 東大の発表後、他にも秋入学を検討しはじめた大学が次々とあらわれた。大学のグローバル化という点で、僕は、この流れに賛成だ。

 しかしそれよりも前にすべきことがある。大学受験英語の改革だ。受験英語TOEFL、あるいはTOEFLそのものでないにせよ、それになるべく近い形の試験にすべきだ。

 TOEFLは、英語圏の大学への留学を希望する人が受ける英語力判定試験だ。リーディング、リスニング、スピーキング、ライティングの4部から構成され、2005年から試験の全過程がコンピュータを使って実施されるようになった(TOEFL iBTと呼ばれる。iBTはInternet-Based Testingの略)。満点は120点。ハーバード・ビジネス・スクールの場合、109点以上が出願の条件として受験者に課されている。

 現在の受験英語は、日本にしか存在しない特殊な英語だ。英語を学ぶ本来の目的は、英語圏で通用する英語を身につけることであるはずだ。だったら最初から、そうすべきだ。日本にしかない英語の勉強に時間を費やすのはムダでしかない。

 そもそも日本人がつくった英語の教材がベストとは限らない。世界に目を向ければ、日本で使われている英語教材より優れた教材があるかもしれない。もっと進んだ教材が他の国にあれば、積極的に利用していくべきだ。(174-175頁)

言語鎖国をやめよ

 どうして日本はムダな英語教育ばかりしてきたのだろうか。
 僕は、日本政府が意図的に「言語鎖国」政策をとってきたのではないかと考えている。

 言語鎖国とは、国家が国民の使用言語を母語に制限し、外国語の使用を禁じて、国民を言語的に閉ざされた状態に置くことだ。もちろん日本で現実に、外国語の使用が禁じられているわけではない。しかし、英語教育の現状を見ると、むしろ英語を使えなくなるような教育をしているとしか思えないのだ。

 なぜ言語鎖国をするかと言えば、日本文化を守るため、日本の社会秩序を守るためなどいろいろな理  由が考えられる。

 経済的な理由もあるだろう。日本人が英語を自由自在に操るようになって言語的に開かれた状態になると、外国人がどんどん日本のマーケットに参入してくるだろう。そうなると日本独自の基準は国際標準に取って代わられることになる。「それは困る」と、数多くの企業が反発するはずだ。

 また、言語を一つに絞ることによって、マスメディアをコントロールしやすくなり、世論も誘導しやすくなる。海外からの情報収集、外国人とのコミュニケーションを通じて、多様な意見が形成される可能性を、ある程度封じることができるからだ。

 インドネシアは、1967年にスハルトが大統領に就任して、言語鎖国政策を推し進めた。1990年代後半に僕がインドネシアに行ったときは、誰も英語を話せなかった。

 ところが1998年、スハルト体制の終焉とともに、インドネシアの言語環境は様変わりした。隣国のマレーシア、シンガポールの経済的台頭を目の当たりにして、このまま言語政策をつづけていたらインドネシアの未来は危ないと気づいたのだ。

 以来、インドネシアは国家をあげて、英語教育の改善に取り組んでいる。最近、僕はインドネシアを訪問した。驚いたことにタクシーの運転手も英語がペラペラだった。

 インドネシアだけではない。伝統的に母語を保護する政策に力を入れてきたフランスを含め、今、ヨーロッパ各国が、以前は中学校から教えるのが普通だった英語を小学1年から教えるようになっている。

 6つの言語を公用語と定め、多言語主義を重視してきた国連の国際会議においても、効率性から最終文書以外の途中段階で作成される実務的な文書は英語だけになってきているという。(175-177頁)

 積極的な英語教育政策を進めた国で、今、問題になっているのは、ランゲージデバイド(言語格差)だ。たとえば韓国では今、40代までは英語のできるビジネスパーソンが多いが、50代以上になるとできない人のほうが多い。

 パソコンやインターネットを使いこなせる人と使いこなせない人の間にある待遇や機会の差として、デジタルデバイド情報格差)が知られているが、英語を話せる人と話せない人の間にも似たような格差が生まれつつあるのだ。

 もし今後日本でも英語教育の見直しが進めば、韓国と同じようなランゲージデバイドが社会問題としてクローズアップされるようになるかもしれない。しかし、それを恐れてはならない。むしろ格差が生まれないように、今のうちから英語を学べばいいのではないだろうか。楽天の50代以上のおじさんたちも苦労しつつ、何とか英語をものにしつつある。

 僕たちは、デジタルデバイドとともにランゲージデバイドを乗りこえていかなければならない。日本は言語鎖国をやめ、言語開国すべきだ。(177-178頁)