青木保『異文化理解』書評
- 作者: 青木保
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2001/07/19
- メディア: 新書
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■文化におけるコミュニケーションの三つのレベル(エドマンド・リーチ『文化とコミュニケーション』)
①「信号的レベル」=ごく自然的なこととして互いに人間ならばわかりあえるような、誰でもだいたい理解できる形でのコミュニケーションの段階。「自然」のレベル。(143頁)
②「記号的レベル」=社会的な習慣や取り決め。「社会的」レベル。(144頁)
③「象徴的レベル」=社会特有の価値、行動様式、習慣、信仰など、外部の者にとって理解するのが困難なもの。文化的な中心部。(145頁)
→「社会のレベルまでは交通信号のようなものですから、その社会で生活する誰にとっても意味を持つことが多いわけですが、象徴のレベルになると、その価値とか意味を共有している人間しかわからないということになります。」(145頁)
→「一般に、異文化といっても慣れてしまえば同じだと思いがちですが、それは社会的なレベルにとどまっている場合が多いのです。その文化の価値とか象徴を理解するところが異文化理解のひとつの大きな困難であると同時に、大きな課題なのです。」(148頁)
■「境界の時間」
どのような社会にも「通過儀礼」が存在します。(略)その儀式を無事通過すると、その人は社会の中で「次の段階」に進んだと認知されるわけですが、ではその儀式を行なっている間の時間は何かというと、個人としては連続していても社会的には一種の空白の時間なのです。文化人類学ではそれを「境界の時間」と呼んでいます。(64頁)
→「私たちの現代日本社会は、のべつまくなしに日常の仕事の時間が全体を覆っており、朝起きてから夜寝るまで、「境界の時間」がどこにも設定されていません。人生という視点から見ても、たとえば成人式などの意義はなくなっています。「成人の日」はありますが「境界の時間」を過ごす日ではもはやありません。結局、現代の直接的な時間に裂け目を作る装置がないために、日本社会はゆとりのない、緊張ずくめの社会になってしまっているとも感じられるのです。」(72〜73頁)
【書評】
全体的に浅く普遍的な内容の主張に徹しており、異文化理解というテーマに対して理論的で緻密な理解を得ることはできない。一方でますます画一化の動きを早めるグローバリゼーションと、他方で民族や文化による違いに対する認識の強まりという分裂的な動きが同時進行しているという説明も、すでに常識の範囲に属してしまっている。
ただ、「境界の時間」という概念は、もし日本が今後「文化大国」としての地位を曲がりなりにも追求しようと思うならば、おそらく鍵となる概念だろう。
どのような社会にも「通過儀礼」が存在します。(略)その儀式を無事通過すると、その人は社会の中で「次の段階」に進んだと認知されるわけですが、ではその儀式を行なっている間の時間は何かというと、個人としては連続していても社会的には一種の空白の時間なのです。文化人類学ではそれを「境界の時間」と呼んでいます。(64頁)
文化人類学者の著者は、自分のタイでの僧修行の経験をもとに、そのような制度がタイの文化的な中核になっていると同時に、社会に対してゆとりをもたらしていると考える。近代的な社会からいったん離れて、「空白の時間」を過ごし、そしてまた社会へと戻っていく。これは何も僧修行のような特殊なものばかりを指すのではなく、異文化の世界に入っていくこともまた立派な「境界の時間」を過ごすことになる。留学、海外赴任などもそうだろう。
日本においては、この「境界の時間」を経験する場がほとんどないと著者は言う。留学や海外旅行をする日本人がこれだけ多いというのは、裏を返せば、国内で「境界の時間」を作り出すことができないことが一つの原因だとも言い得る。
結局、現代の直接的な時間に裂け目を作る装置がないために、日本社会はゆとりのない、緊張ずくめの社会になってしまっている(73頁)
のである。
近代的な社会から離れて、自分を一時的に全く異質の存在に変えてしまうことの意義は、何も自己実現のためだけではないのである。それが社会にゆとりをもたらし、そのような「逸脱」を社会全体が許容できる(または当然視できる)ようになった時、そこに文化が生まれる余地ができると言い得るだろう。