川島永嗣『本当に「英語を話したい」キミへ』

本当に「英語を話したい」キミへ

本当に「英語を話したい」キミへ

皆さんの抱く僕のイメージは、もしかしたら、さまざまな言語が話せてもともと語学の才能があるとか、いつも自分の夢や目標に向かって着実に努力しているという見方もあるのかもしれません。でも僕自身振り返ってみると、実は何度となく、自分は語学に向いていないのではないか、と思わされる苦い経験がたくさんあったし、今でももっとこんな風に話ができたらいいなとか、違う表現の仕方があるんじゃないかと日々葛藤しています。(10-11頁)

初めて留学したイタリアでは、言葉がまったく通じないという現実の前に立たされました。車で3時間、当時の留学や練習参加をアレンジしてくれていたイタリア人の代理人に、いくら勉強したイタリア語で話しかけても通じない。終始無言でひたすら過ぎゆくヨーロッパの景色を見つめながら、誰も自分のことを知らない、友達もいない、話そうとしても通じないという環境に置かれたことで、それまで感じたことのない孤独感、「自分は今ここに存在しているのか」という思いが身体中に込み上げ、すぐに国際電話で母親に電話をかけて、心配をかけないように普通を装いながらも、母親の声を聞いた瞬間、安堵で涙が溢れたことを今でも鮮明に覚えています。(12頁)

何かを知ったり、見たりしただけでは、自分の中の「言葉」になりません。他のものと組み合わせたり、比べたり、別の角度から見てみたりすることで、知識や経験が「言葉」として使える、生きたものになるんだと思います。(149頁)

その「自分の言葉」を持つためのひとつの方法として、僕は、よく本を読むようにしました。(中略)選手によって目的は違うと思いますが、読書は心身のバランスをキープしたり、人前で話す時のヒントになったり、サッカーとは別の世界を知ることができたり、成功のための方法論を学んだり、色々な面で役に立ってくれます。(149頁)

英語、イタリア語と使える言葉が増えていくと、不思議と何だか自信がついてくるものです。言葉を通じて誰かと理解が成り立っていることを実感するたびに、「しゃべれるようになんかならないじゃないか」と、今ひとつ積極的になれなかった自分が嘘のように思えてきました。(154頁)

人間は本能的に、わからない言葉を聞くと不安になってしまうものなのかもしれません。誰かが自分の悪口を言ってるんじゃないか、笑われているんじゃないかと、被害妄想に陥ってしまうようなこともありました。こういうことは、ひどくなると精神的な病気になるのでしょうが、誰にでも多かれ少なかれ起きることだと思います。言葉がわからないと、それが常に起こってきます。自分のことを何か言われてると思い込んで、それがストレスになってしまうんですね。(155頁)

自分をもっとオープンにして、日常のすべてを授業にするくらいの気持ちを持って過ごさなければ、と努力したところ、次第に言葉を話すことで自信さえついてくるようになったのです。(159頁)