新渡戸稲造『修養』


国際連盟事務次長時代の新渡戸稲造

修養 (タチバナ教養文庫)

修養 (タチバナ教養文庫)

すなわち修身とは克己なることが本となって、肉体情欲のために心を乱さぬよう、心が主となって身体の動作または志の向く所を定め、整然として、順序正しく、方角を誤らぬよう、挙動の乱れぬよう、進み行く意であろうと思う。(24頁)

我々がたびたび履行せねばならぬ務めは平凡な問題で、脳漿を絞らなくとも、常識で判断のできるものである。しかしてまたこれが最も困難なる所である。否、判断のみでない。判断したことの実行こそ実に容易ならぬ難事である。この日々の平凡な務めを、満足に行い続けさえすれば、一生に一度あるか、なしかの大難題が起こるとも、これを解決するは容易である。ただ日々の平凡の務めを怠る者は、かかる大難題に出合うと、はなはだしく狼狽し、策の出ずる所を失う。ゆえに難題の解決も、要するに日々の平凡の務めをなし遂げることによって、初めてできることと思う。(29頁)

世の人は、何か目立ったこと、非凡なこと、人を驚かすような、ドラマチックを喜ぶから、平凡なる日々の修養を軽視する風がある。しかし、これはむしろ未熟の思想であると思う。例えば、読本がようやく分かるかどうかという少年時代に、高尚な哲学書をひもときたがるごときものである。いかに説明を聞いても、半分も分からぬ。字書を引いても、同じく半解でありながら、ただ高尚な書を見れば、高尚な人らしく見えるのを楽しむ。それと同じく、修養なき者は、力の及ばぬ議論を吐き、識の足らぬ説を述べて、一時を快うするという風がある。しかし、修養ある人はそういうものであるまいと思う。生まれた子供は乳で育てるが、その後、だんだん、日を重ぬるに従い、堅い食物も消化することができるようになると等しく、義務を尽くすにもまた、その地位にあれば、その地位に相当するだけの義務をよく尽くした後、初めてそれ以上の義務を尽くすに足るの力を養い得るものである。
僕がここに修養法を説くに当たっても、我々が平凡なる日々の務めを尽くすに、必要な心がけを述ぶるを目的とするので、一躍して英雄豪傑の振る舞いをなし、むずかしいこと、世の喝采を受けることを目的とせぬ。功名富貴は修養の目的とすべきものでない。(34-35頁)