佐藤唯行『アメリカのユダヤ人迫害史』書評
- 作者: 佐藤唯行
- 出版社/メーカー: 集英社
- 発売日: 2000/08/17
- メディア: 新書
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本書では「反ユダヤ主義」を以下のように定義する。
反ユダヤ主義とは、ユダヤ人がユダヤ人であるがゆえに被る抑圧の諸形態と、その抑圧を正当化する思想を総称する言葉である。(18頁)
そしてこの反ユダヤ主義の形態を、以下の4つに分けている。
衝撃的だったのは、(2)の具体的形態としての、「就学や就職、昇進の際などに加えられる排斥や差別」(18頁)と、(3)の事例として、自動車王ヘンリー・フォードの長期間にわたる反ユダヤ・キャンペーンであった。前者については、悪名高い「クオータ・システム(特定の人種にのみ大学入学定員の枠を設定して、入学者数を制限する制度)」が事例として取り上げられており、つい最近までも急増するアジア系学生に対する入学定員の制限が一部の名門大学において存在した。
なぜユダヤ人が標的にされたのか。本書ではその大きな理由として、ユダヤ人の「定住志向」と「上昇志向の強さ」が挙げられている。
ここで特筆すべきは、出稼ぎ的性格が強かった他の移民に比べ、ユダヤ移民は帰国率がきわめて低い、定住志向型の移民であった点である。そのため、帰国者を差し引いた永住者の数だけでみれば、ユダヤ移民はこの時期の移民集団のなかで、文句なく数的にも最大の集団であったといえる。(80〜81頁)
就職の機会に大きな制約のあったユダヤ人は、職場の工場がある大都市中心部に集住する他なかった。そこでは早くから移住していたアイルランド系移民との摩擦が高まり、結果的にユダヤ人襲撃という最悪の暴力事件にまで発展した。
ユダヤ人の「上昇志向の強さ」はつとに有名だが、その特質がネイティブ白人プロテスタント系学生らにとっては脅威に映った。
一九二〇年代以後、学園に急速に進出しはじめたユダヤ人学生集団が示した、その勉学への傾倒ぶりと教育を手段に社会的上昇をめざす生き方は、ネイティブ白人プロテスタント系学生集団の側に、強い排斥感情を抱かせる要因になった。何故なら、ユダヤ人学生はこれまで、学内で歓迎されることのなかった競争原理を持ち込んだばかりか、彼らが成し遂げたアカデミック・サクセス―優秀な成績を収め、奨学金を得ること―は、プレップ・スクール出身者たちの生活様式に対して暗黙のうちに異議を唱えていることに等しく、その伝統的価値観を脅かすことになったからである。(155頁)
人種差別の標的にされたのは何もユダヤ人だけではないが、この優秀さがワスプのやっかみを招いたことは明らかだった。迫害を受け続ける過程で、ユダヤ人たちは黒人など同じく人種差別を受けている人種に対して同情を強めていった。60年代に激化した公民権闘争においては、ユダヤ人弁護士らが黒人の原告を積極的に支援したことが知られている。
ところが、20世紀後半において、ユダヤ人と黒人の関係は悪化の一途を辿った。
第二次世界大戦後、かつて反ユダヤ主義の中心的存在であった白人労働者層が、その反ユダヤ主義を一貫して減退させていったのとは対照的に、黒人は二〇世紀後半のアメリカにおいて、反ユダヤ主義の度合いを高めている唯一のエスニック集団となったのである。(207頁)
なぜか。
この国では、低所得の黒人が近隣居住区に移転してくると、白人の住民が彼らを嫌って、郊外の住宅地へこぞって移転するという現象は普通に見られることであった。ところが、ルバビッチ派(宗教的規律を今も最も頑なに守り続けるユダヤ教分派―評者)の人々は以前より治安の悪くなったこの地区に、黒人を恐れるそぶりもみせず、何事もなかったかのように住み続けていたのである。それは、現代社会に対する、妥協の余地のない分離主義的生き方のゆえであった。つまり彼らは自分たちの信仰共同体、霊的世界の外の出来事に関して、まったくといっていいほど関心を持たなかったからである。(204頁)
こうして貧しい黒人たちと居住区を共有していたユダヤ人たちは、その裕福な生活の故に、黒人たちから怨嗟の声を向けられたのである。
黒人たちの怨嗟の声が白人社会全体に対してではなく、特にユダヤ人社会に向けられた原因はどこにあるのだろうか。それは、総人口のわずか二・五パーセントにすぎないユダヤ人社会が、全米で最も裕福な四〇〇人の大富豪の実に二六パーセントを占めている現実にほかならない。かたや黒人社会は人口の約一二パーセントを占めていながら、この国の富のごくわずかを所有しているにすぎず、両者のあいだには、とても同じ国の国民だとは思えないほど絶望的な富の格差が存在しているのである。(210頁)
以上のように、ユダヤ人が受けてきた差別や迫害は、ワスプ対ユダヤ人という構図だけではなく、ユダヤ人対その他の非白人種という構図をも含めて見なくては実態がわからなくなる。
本書を読んで、人種差別や迫害についての現実に暗澹とさせられる思いだったが、一つだけ希望を持てるような教訓を得た。それは以下の箇所についてである。
異民族に対する敵意という感情は、太古の昔から連綿と続いてきたわけではない。それは歴史上のある特定の発展段階で、その時その時の固有な政治・経済的環境のなかで生み落とされたものなのである。(19〜20頁)
本書にあったユダヤ人に対する抑圧は、そのほとんどが社会的・経済的な理由(居住区の人種構成の急激な変化、ユダヤ人の教育重視志向、貧富の格差など)から来ている。これは換言すれば、社会的・経済的条件が変われば、政治的・人種的対立もまたそれに応じて変化せざるを得ないということである。日本人と朝鮮・韓国人の間にある感情的なしこりについても同じことが言えるだろうが、このような人種・民族間の対立において、血の違いに対立の原因を還元させることがいかにナンセンスなことであるかがここから導き出せるのではないだろうか。そう考えるならば、どれほど絶望的な紛争や対立があっても、「決して永久に終わらない」と考える必要もないし、そのような考えは史実に悖るということになる。
啓蒙書という性格から、できるだけセンセーショナルな事例をとりあげて読みやすさに配慮したことを著者は断っているが、ユダヤ人のアメリカにおける艱難辛苦を理解するための入門書としては最適の書であると思う。全体的にユダヤ人に肩入れした書き方をしているのは確かだが、学者らしく資料をふんだんに利用して客観性を維持している。一般書における書き方・語り方としては、自分にとっては最も理想の形に近い本であったと思う。