イスラエルと広島

4月20日付の朝日新聞「私の視点」欄で、モントリオール大学のヤコブ・ラブキン教授(歴史学)による「建国祝えぬユダヤ人も」と題した投稿記事を読んだ。自分がよく知らない分野についての理解は、単純化しすぎたステレオタイプに流されやすいものである。「ユダヤ人=シオニスト」というステレオタイプを修正してくれる、非常に貴重なコラムである。

イスラエルという国がしばしば「ユダヤ国家」と呼ばれるように、同国をユダヤ人と結びつけて考える人は多い。20日の建国62周年記念日を迎え、日本の人々は、ユダヤ人がダビデの星と、白、青の国旗の下に結束していると思うかもしれない。実際には建国を祝わないどころか、祝うものなど全くないと考えるユダヤ人もいる。

超正統派のユダヤ教ラビ(宗教指導者)は、建国の基盤となった世俗的政治イデオロギーであるシオニズムを根源的に拒絶している。いわく「ユダヤ教徒がほかの民族を抑圧することは(神から)禁じられている。イスラエル建国はパレスチナ人に対する征服、抑圧によって実現したのだ」と。

シオニズムの生成期に、多くのユダヤ人は、反ユダヤ主義者らを利するとしてシオニズムを拒絶した。反ユダヤ主義者がユダヤ人を自国から排除しようとするなかで、シオニストユダヤ人をイスラエルに集めようとしたからだ。同国は、建国60年以上たったいまも自国をホロコーストからユダヤ人を究極的に守る存在と位置づける。だからこそ、世界中のユダヤ人コミュニティーに、ユダヤ人が唯一安全に暮らせるのはイスラエルしかないという恐怖感を植え付けようとしている。実際には同国はユダヤ人にとって最も危険な場所になっている。

100人を超す英在住のユダヤ人有力者は、建国60周年の際、英紙ガーディアンにこう寄稿した。「国際法に違反する民族浄化に従事し、ガザ地区の一般市民に途方もない集団的な懲罰を加え、パレスチナ人の人権と国家建設への渇望を拒み続ける国家の建国記念日を祝うことはできない。我々が祝うのは平和な中東においてアラブ、ユダヤ双方の人々が平等に暮らすときだ」

マハトマ・ガンジーはかつて「暴力によって得られたものは、暴力によってのみ維持される」と洞察した。悲しいことに、イスラエルはまさにこの原則の通りになっている。軍事大国イスラエルによる兵器関連の輸出額は、1人当たり人口比でみれば世界一だろう。同国で影響力を持つ人々が和平に関心を持たないのは至極当然なのだ。

イスラエル批判を反ユダヤ主義と見なす勢力からの圧力に直面しながら、本来なら伝統的なユダヤ的価値観である平和や公正といった理念をイスラエルパレスチナ双方にもたらすための手助けを世界の人々に求めるイスラエル平和団体もある。イスラエル批判は反ユダヤ主義とは異なる。ユダヤ人迫害の歴史的重荷を持たない日本は、罪滅ぼし的な西側諸国とは異なる視点でイスラエルを見ることができるはずだ。

ホロコーストという歴史的現実がなければイスラエルという国家はできなかっただろうし、イスラエルが戦後にパレスチナに対して行ってきた行為が主要国からここまで事実上黙認されることはなかっただろう。ホロコーストパレスチナ問題は別問題だと言えないのが政治であり、あらゆる問題がリンケージして政治的決定に影響を及ぼす。ラブキン氏が言うように、西側諸国はイスラエルに「罪滅ぼし的」な態度で接してきたのである。

しかし、ホロコーストという重い歴史を背負いながらもそれをイスラエルの行為の正当化に使おうとしないラブキン氏のような人もいる。そう考えた時、広島が「唯一の被爆国」をアピールする時、イスラエルの心ある知識人が抱えているような、加害と被害の狭間の苦悩が現れているだろうかと考えざるをえない。

広島が語り続けていくことが重要であることは確かである。でもそれが一方通行に終わらず、世界との対話の中で語りのコミュニティを築き上げていくには、広島は同時に日本が犯した戦争犯罪にも向き合わなくてはならない。これが政治的な問題でもある以上、「それとこれとは別」とは言えない。すべてはリンケージするのである。広島は第二次世界大戦の日本軍の作戦を支える重要な軍事都市だった。そのことを広島がどのように語るかは、被爆についての語りに世界が聞く耳をもってくれるかどうかを大きく左右する。

一方的に訴えるだけではそれは自己満足にしかすぎず、世界には広がらない。ユダヤ人でありながらイスラエルを批判的に見るラブキン氏のような知識人の言説が世界的な意味を持っている事実を、広島も知らなくてはならない。