他者の期待と自己実現


人間は誰でも他者からの期待を受けて生きている。たとえ身寄りのない孤独な人であっても、社会の中で一定の役割を果たすことを求められているという点では、期待を受けて生きていると言ってよい。最低限、反社会的な行為を取らないという消極的な期待であれ、期待の一種であることに違いはない。

その期待を通して(利用して)、人は人間として成長していく。ただし、その期待をどの程度自分の自己実現に利用するかというのは、それぞれの人生の中で大きく異なる。いついかなる場所でも他人の期待に合わせて生きていくことがいいことなのか、それとも要所で反旗を翻すべきなのか。こんな漠然とした問いでは到底一般化はできないけど、個々の人生に合わせて考えてみることは無駄ではないだろうと思う。

2月14日の朝日新聞の特集記事で、芥川賞作家の川上未映子のインタビュー記事が掲載されている。その中で彼女は、「こうなりたい自分の目標を定めて強くイメージし、それをするための条件と戦略を立て、がんばることをよしとする」現代の風潮について、

「途中で、違う自分になっているかも知れないですしね。どうなりたいとか戦略とかじゃなくて、できることは何か、ということから始めるのも大事ですよね。」

と答えている。

あらゆる場面において「合理性」を要求してくる社会。それに対して、「それは今の時点においてだけの、しかもあなたの立場からみた『合理性』にすぎません」と言える自分というのは、きっと必要だろうと思う。彼女の言うとおり、いくら今の基準でがんばり続けたって、それがのちに無意味な基準になることはよくあるのだから。

「他人から認められる」というのも同じで、人から認められると確かに嬉しいしやる気も出るかも知れないけど、それは狭い分野での狭い価値基準に基づく、期間限定の承認にすぎないのであって、それが崩れたからといって自分の存在意義のすべてが無になったと考える必要もない。

人に響く仕事なり作品なりを作るには、「私が私が」「俺が俺が」という自意識が最大の邪魔になる。川上未映子がこう言った時、自分もその通りだと思った。

「(自己実現の欲求は)創造の源泉にはあるのかもしれないけれど、自意識から離れて世界の方へ出ていかないと人に響く作品はつくれない。欲求に意味があるとしたら、いいものをそこに置きたい、世界のためにもう1個増やしたい、それだけの思いじゃないでしょうか。」
「いい作品をそこに置きたい、みんなを感動させるものを世界にもう1個増やしたい。そんな感じです。自分が認められるとか、そういうのはどうでもよくて」

社会に出て働くということは、自分が単なる駒にすぎないことを知ることから始まる。でもそこから、そんなちっぽけな自分に何ができるのかを考えることも始まる。自意識を離れ、世界へ飛び出していくことで、他者の期待を相対化できる自分が築かれていく。

「働きに出るってことは、誰だって打ちのめされるところから始まりますよね。大きいルールの中では、それまでの自分の価値観や、自意識は通用しません。自分が特別でもなんでもない、ただの労働力としての存在にすぎないということを知らされます。そこから、自分ができることはなにか、ということが立ち上がってくるのではないでしょうか。」

期待するのもされるのも、それが度を超すと反動が大きくなる。身の丈を知り、分をわきまえる。そうやって自意識から離れて社会と関わると、きっと多くの感動に出会えるはずだと思う。