専門家と一般市民の対立「専門家はもっとがんばるべきだ」

専門知は、もういらないのか

トム・ニコルズ『専門知は、もういらないのか』(高里ひろ訳)みすず書房、2019年より。

※強調・下線は引用者

 

アメリカ国民は、自国の政治経済制度がもたらすものについて、ますます現実離れした期待を抱くようになっている。この権利意識は、人々が「専門家」、とくに「エリート」に対して常に腹を立てている一因となっている。エリートとは、現代アメリカの慣用では、何かしらの教育を受けていて、人々の間違った考えを甘やかさない人間を指す言葉だ。貧困を終わらせることやテロを防止することは見かけより難しいと言われると、アメリカ人はあきれた顔をする。自分の周囲のものごとの複雑さを理解することができない彼らは、何も理解せずに専門家、政治家、官僚が自分たちの生活を支配していると非難することを選ぶ。(p.260)

 

専門家がしなければならないのは、自分の助言の責任を認め、同業者どうしでも責任を課し合うことだ。いくつかの理由――学位の過剰供給、世間の関心の欠如、情報化時代の知識の生産についていく能力不足など――から、専門家たちはこれまで、社会がその特権的な立場に求める誠実さでその義務を果たしてこなかった。もっとがんばるべきだ。たとえその努力が、たいていは気づかれずに終わるとしても。(p.264)

 

市民がもはや専門家と政策決定者を区別せずに、気に入らない結果について政策に関わる人間全員を非難したがっているなら、その結果は「よりよい政策」ではなく、「専門家の政治化」の進行だ。政治家が専門家を頼りにしなくなることはない。だが、その専門家は政治家に対して――そして政治家の事務所のドアを叩く怒った人々に対しても――相手が聞きたがっていることしか言わなくなる。

 そうなったら、民主主義も専門知も堕落した世界最悪の状況になる。なぜなら民主国家の指導者も、彼らに助言する専門家も、無知な有権者と面倒な関わりをもとうとは思わないからだ。そこまでいくと、専門家は公共の利益のためではなく、いつでも人々の機嫌を伺っている政治派閥の利益のために働くようになる。今のアメリカはすでに、そんな結末に危険なほど近づいている。(p.268)

 

一般の人々が憤慨して、専門知を含む成果のしるしすべてを「民主主義」と「公平」の名の下に横並びにして平等にするように求めるなら、民主主義も公平もありえない。あらゆるものが意見の問題になり、あらゆる見解が平等の名の下にもっとも低俗なレベルに引きずり下ろされる。無知な人々が子供にワクチンを接種しないせいで百日咳が流行すればそれは寛容の証であり、偏狭な孤立主義者が地図で他の国を見つけられないせいで同盟が崩壊したら、それは平等主義の勝利になる。(p.278)

 

専門家は常に、おのれは民主主義社会と共和政府の主人ではなく僕であるということを肝に銘じておかなければならない。一方、主人となるべき市民は、みずから学ぶのはもちろんのこと、自分の国の運営に関わりつづける公徳心のようなものを身につける必要がある。一般の人々は専門家なしでやっていくことはできない。この現実をわだかまりなく受け入れるべきだ。同時に専門家たちも、自分たちにとっては自明の理に思えるような助言でも、彼らと同じものに価値を認めない民主主義においては、かならずしも受け入れられるわけではないことを納得しておく必要がある。(pp.283-284)