尊敬されなくなった専門知

専門知は、もういらないのか

トム・ニコルズ『専門知は、もういらないのか』(高里ひろ訳)みすず書房、2019年より。

 

たしかに専門知は、いらなくなったわけではないが、窮地に陥っている。ひどくまずいことになっている。アメリカ合衆国はいまや、みずからの無知を礼賛する国になってしまった。それはわたしたちが科学や政治や地理についてよく知らないということではない。いや、たしかに知らないが、それは昔からだ。そして実際、それは問題にすらならない。我々が住む社会は分業、つまり全員が何もかも知らなくても問題ない仕組みで動いているのだから。パイロットは飛行機を飛ばし、弁護士は訴訟を起こし、医師は薬を処方する。我々の誰も、朝にモナ・リザを描いて夜にはヘリコプターの設計をしたダ・ヴィンチではない。それでいいのだ。(pp.1-2)

 

問題なのは、わたしたちがものを知らないのを誇らしく思っていることだ。アメリカ人は、無知であること、とりわけ公共政策に関する無知を、まさに美徳だと考えるところまで来ている。専門家の助言を拒否することが自主性の主張になり、そうすることで、おのれの間違いについて指摘を受けることを避け、ますます脆弱化する自我を守ろうとしている。(p.2)

※斜体・太字部分は原文では傍点

 

 

平均的アメリカ人の基本的な知識のレベルはあまりにも低下し、「知識が足りない」の床を突きやぶり、「誤った知識をもつ」を通り越して、さらに下の「積極的に間違っている」まで落ちている。人々は馬鹿げたことを信じているだけではなく、その間違いを手放さないどころか、積極的にこれ以上学ぶまいとしている。(p.3)

 

普通は簡単にその助言が否定されることのない多くの専門家たちも、同じ経験をしていることがわかった。こうした話にわたしは驚愕した。患者やクライアントが分別ある質問をするという話ではない。患者やクライアントが専門家に対して、なぜその助言が間違っているのか、積極的に主張するという話なのだ。(p.4)

 

さらにまずいことに、近頃非常に気懸りなのは、人々が専門知を却下することそのものではなく、人々があまりにも頻繁に、あまりに多くのことについて、あまりにも怒りをこめてそうしていることだ。(p.4)

 

少なくともわたしには、これはたんに、専門家への不信や疑問や別の選択肢の追求ではなく、自己愛が専門知への侮蔑と合わさって、一種の自己実現行動になっているのではないかと思える。(p.4)

※太字・下線は引用者

 

今日の専門家たちは、異を唱えるのではなく、そうした齟齬を、最悪の場合、害意のない意見の相違として受け入れるべきだとされている。「合意しないということで合意する」べきだと。最近この言葉は、論争の消火器のようなものとして、やたらと使われている。そしてもしわたしたち専門家が、何もかも意見の違いで済ますことはできない、正しいこともあれば間違ったこともあると言い張ると……ただの嫌なやつだということになるらしい。(pp.4-5)

 

人々は専門知について健全な疑いをもつのではなく、積極的にそれに憤慨し、多くの人々は、専門家が専門家であるという理由だけで、間違っていると見なす。人々は「エッグヘッド」――最近また流行り始めた知識人を揶揄する蔑称――には黙っていろと唸り、医師には自分に必要な薬を指示し、教師には子供がテストで書いた間違った答えを正解だと言い張る。誰もがみんな平等に頭がよく、今のアメリカ人は過去最高に賢いと思っている。

 とんでもない間違いだ。(pp.5-6)

 

一方の専門家たち、とくに学者は、一般の人々と対話するという義務を放棄してしまった。彼らは専門用語と今日的な意義をもたない議論の陰に引きこもり、仲間うちのつきあいだけをしたがっている。その二者の中間にいる、いわゆる「パブリック・インテレクチュアル」(公益増進に貢献する知識人)と呼ばれる――わたしもその一人でありたいと思っている――人々は、自分たち以外の社会と同様にいらだちを募らせ、二極化している。(pp.13-14)