「ぶざまな人生」(勢古浩爾)
※強調・下線は引用者
インテリになるほどの知識も意欲もないし、単純にその場その時に溶け込んで、集団のなかで明朗を演じる大衆にもなれない(大衆とは集団性を苦にしないものの謂いである。苦にしないどころか、むしろそのなかでこそ生き生きとする)。はっきり断言する。どちらもきらいなのだ。(pp.171-172)
わたしは自分の位置をつぎのようにきめている。ものを考えるときは、完全に二階(「知」の世界)に上がりきらない。といって一階(「日常」の世界)べったりにもならない。その中間の中二階で考える。だが生きるのはあくまでも一階である。この中二階は「ぶざま」ではあるが、わたしが二階をきらうのは、ふだんは二階(高級な観念)に上がりっぱなしで、一階(俗情)を見下ろしている者が、夜陰にまぎれてちゃっかりと一階に降りてきて、一階の住人以上の俗情を手に入れていたり、手に入れようと右往左往している姿がこのうえなく「ぶざま」だからである。ふつうに考えれば当り前のことだが、なんだ、ふだんは偉そうなことを言ってるが、こいつもやっぱり金と女(男)と地位とモノが欲しいんじゃねえか、コノ二階ヤローが、と思ってしまうのである。(pp.173-174)