「くそみたいな男」(勢古浩爾)

 

この俗物が! (新書y)

この俗物が! (新書y)

  • 作者:勢古 浩爾
  • 発売日: 2003/12/01
  • メディア: 新書
 

  勢古浩爾『この俗物が!』洋泉社新書y、2003年より。

 

くそみたいな男がいる。夜になるとサラリーマンの居酒屋と化す中華料理屋で、背広姿の見るからにとろくさい三十代男が椅子にふんぞりかえって、会社か店の子かしらないが、若い女の子ひとりを相手に「おれもいろんな女を見てきたが」とか「おまえのどこそこがこれこれなんだ」と薄笑いを浮かべながら延々とネチネチやっているのである。で、こいつがまたなんのメリハリも利いていない温泉卵みたいなツラをしているのだ。(p.98)

 

世間価値として地位、権力、金、女、知識(教養)、モノ、学歴、有名性、言葉、自尊心と挙げたが、これらはすべて手段価値ばかりである。それをあたかも目的価値のように見なして、血道をあげるというのが俗物の俗物たる所以である。ここでもことわっておくが、女を「手段」というのは、あくまでも俗物の対象としての「女」の場合である。俗物は女を「手段」としか考えていない。いわば数としての女、抽象物としての女としか見なくて、ひとりの具体的な女としては見ないのである。(p.128)

 

もともと世間価値を求めるのは自然である。ただ世間価値であるからといって、自分でそのことの意味を考えずに、度を越してそのことだけを追い求めるのは、それは頭が悪いのは自分の勝手ではあるが、いくらなんでも頭が悪すぎるというのである。本末転倒というのはこのことである。腰ぐらいまで浸かっているのが妥当なのだが、首までどっぷり浸かってしまっては、そりゃ脱けられなくなるのも道理である。(pp.128-129)

 

俗物は早く結果を知りたがりすぎる。目に見えるものだけを信じすぎる。世間価値の意味を疑わなさすぎるのだ。そのくせ頭の悪さは目に見えないだろうと高を括っているのだが、それが周囲には明確に見えていることにはまったく気づいていない。世間価値や他人の視線にたいしては邪気がありすぎなのに、自分の頭の悪さにはあまりにも無邪気すぎるのである。(p.129)