この俗物が!(勢古浩爾)
「他人との比較」をすることはやむをえない。人情であり、われわれは仙人ではないからである。比較したあと、それを自分の中にどう収めるかが問題である。他人を見下すタイプと崇めるタイプがあるというのは、ちがうと思う。見上げる人間は見下す人間であり、見下す人間は見上げる人間なのだ。「高すぎる自己評価のままに見られたい」というのはまさにそのとおり。わたしたちは男も女も、おとなも子どもも、だれでも心の中に、身長を高くするマジックシューズを履いている。(p.33)
わたしたちは自分とまったく関係がないのに、他人を評価するのだ。それも圧倒的に否定的に。ただ目障りだ、耳障りだ、というだけの理由で感情が動くのである。そこで一言いわずにはいられなくなる。他人の格好を見ては、なんだあのざまは、と。バカが得意気になっていやがる。みっともないのに、と。人前でいちゃいちゃするんじゃない。地べたに座るな。弱虫どもがつるみやがって。人間の屑が。えらそうに、何様のつもりだ。あんなものどこがいいんだ、なにもわかっちゃいねえ、と。(p.38)
事は人間評価だけにとどまらない。映画についてもあれはダメこれはいいと言い、小説や評論においても、かれは力がなくなったな、愚作だ佳作だ傑作だ、といわずにはいられない。よせばいいのに、といっても絶対にやめはしないが、ネット上でもあの本はどうだ、この映画はこうだとやっているのである。
再びいうが、自分とはなんの関係もないのである。なんの害も被ってはいないのである。大した迷惑も受けていないのである。にもかかわらず、わたしあの人大嫌い、って「あの人」にとっては大きなお世話なのだ、ほんとうは。
俗物非難もこの範疇である。自分とは金輪際関係がないが、本質的に好ましからぬ人間像なのだ。まったく期待されない人間像、できればああはなりたくない人間像なのである。その像は、ほんとうは他人の目に映った自分の姿なのだが、他人のそれはわかっても、自分のそれはわからない。当然自分自身の俗物性は棚にあげているからである。(p.39)
悪口雑言は人間の快楽である。嫉妬も羨望も優越感も入っている。美醜の感覚も正義感も口惜しさも下賤な意識も入っている。そのような諸々のストレスを悪口で、ときには評価することによって自分を救いだしたい。自分がいかにコトの理非がわかり、いかに能力があり、いかにまっとうな人間であるかを表明したいのである。そのような自分を他人に示し、そのような自分を自分自身で見たいのである。(pp.39-40)