樋口裕一『新・大人のための<読む力・書く力>トレーニング』書評

本書は、受験生だけでなく社会人も読者に想定して、小論文がいかに人間の知的成長を促すかを説く本である。このブログも含めて日常的に書くことの多い自分にとっても、いくつか参考にできる箇所、再確認できた事柄があった。それは特に、「小論文の心得四箇条」の中の「その一」と「その四」である。

気をつけたいのは、力ずくで相手を説き伏せてはいけないということだ。
小論文における「力ずく」とは、自分の感情を読み手に押しつけることを指す。大事なのは、自分とは違う立場の人もいることを理解したうえで、自分の意見の正当性を論理的に訴えることだ。つまり理性的に説得する必要があるわけで、感情的な表現を使ってしまうと「ルール違反」として読み手に拒絶反応を引き起こす。
感情的な表現とは、「許せない」「すばらしい」といったものである。これは小論文では絶対に禁句だ。たとえば「所得の不平等をなくすことはできるか」といった命題に対して、「所得の不平等が生じるような社会は許せない」「すべての人が平等な世界ほどすばらしいものはない」などと書くのは、小論文としては不適切なのだ。
「許せない」「すばらしい」などと書くと、自分の意見の有用性ばかりを押しだすことになり、言わば他の意見を認めない意思表示ということになってしまう。これでは視野の狭さを自らアピールしているようなもので、読み手の共感は得られない。
(中略)
逆に言えば、「許せない」「すばらしい」といった感情的な表現を避けることで、小論文は自然に論理的な説得力を持つのである。もしこの禁句が浮かんでしまったときは、自分が感情的になっている危険信号だと考えて、頭を切り換え、違うアプローチを考案するようにしたい。
同様に注意したいのが、「〜するのは不道徳だ」「〜するのは当然だ」といった表現だ。一見すると論理的な表現に見えるが、じつは自分の理屈の押しつけにすぎず、やはり論理を捨てた感情的な言葉である。これも禁句と思っておいてほしい。(111頁)

「許せない」などという傲慢な言葉はおそらく使ったことはないと思うが、感情的な言葉という点では今までに自分も何度か「ルール違反」を犯しているだろうと思う。「もしこの禁句が浮かんでしまったときは、自分が感情的になっている危険信号だと考え」というのは自分もその通りだと思うが、言うは易く行うは難し、である。
もう一つの「心得」は、「中途半端な結論は禁物!」である。

小論文はある命題について、イエスかノーかを主張するものだ。だが、ちょっと考えてみればわかるように、世の中に「絶対にイエス」とか「絶対にノー」と言えるようなことというのは実はそうそうない。そこでつい、「私はイエスだと考えるが、なかにはノーと思う人がいてもおかしくない」といった、非常に中途半端な結論を書いてしまう人がいる。
これだけ価値観が多様化した世界で、へたにイエスかノーを言い切ってしまうと、偏った意見の持ち主だと思われるのではないか、と懸念する気持ちはわかる。だが、これでは自ら「私の意見は無視してもらってけっこうです」と言っているようなものだ。繰り返すが、小論文は読み手を説得する“ゲーム”である。このゲームは勝つか負けるかであって、多様な価値観を認める度量の大きさを競うものではない。さまざまな他の意見もふまえたうえで「自分の考えは正しい」と自信を持って主張しなければ、読み手を説得することなどとうていできない。「自信がないのなら、自信の持てる意見をたずさえて出直してこい」ということになる。(114頁)

自分が優れた文章だと感じるのは、複雑な現実を過度に単純化せず、かといって曖昧なものではなく、現実の見通しを良くさせてくれるような文章である。内田樹東浩紀などがそのような文章の書き手であるように思う。その意味で「勝ち負けの“ゲーム”」である小論文は、やはり「小」論文に過ぎないのかも知れない。
それでも平均的な学生たちの知的好奇心が高くなく、また好奇心があってもどうやって知識をつけていいのかわからない人が多い現実を考えれば、このような最低限の論理的思考の学習法は有効だろうと思う。現に著者は自分の教え子が小論文を学んだことで大きく変わったことを以下のように紹介している。

課題文についての意見をいやいやでもまとめようとするうち、生徒たちは時事問題の背景にあるものについて、社会について、人間について、自分の意見を持つようになってくる。そして、だんだんと視野が広まり、思考力が高まってくる。そして新聞の内容を理解できるようになり、新聞を楽しみに読むようになる。四月には幼稚なことを書いていた高校生が、夏休みを過ぎたころには私に国際情勢について議論を吹っかけに来たりする。(31頁)
また、受験勉強としてではなく、時間の限られた社会人が<知の基層>を幅広く獲得する上でも、小論文の短い課題文を読むことは有効であると述べられている。本一冊をすべて読むことは時間的にも心理的にも困難な人にとって、学問がこれまで積み上げてきたもの、また学問の最前線で今盛んな議論が行なわれている事柄についての見取り図を得られるというわけだ。(42〜43頁)

誰もがあらゆる学問の知の最前線を深く理解できるわけではない。断片的なつまみ食いではあっても、小論文の課題文を通してそのエッセンスに触れることの意義は大きいと自分も思う。
また、学ぶ側についてだけでなく、出題する側(大学の教員)の事情についても書かれている箇所が面白かった。

もう一つ考えられるのは、大学の出題者の受験生に対する期待だ。彼らはいま自分たちがとりくんでいる問題について、受験生にも考えてほしいと願っている。そこで<知の基層>に触れるような文章を読ませようとしているのだ。先の理由(=小論文のほうが学生の能力を見定めやすい――評者)より、むしろこちらのほうがより強い動機だろうと私は思っている。
知の世界ではしばらく前から大きな地殻変動が起こっている。ルネサンス以来続いてきた従来の知的傾向とは考え方が著しく変化し、政治や思想など、さまざまな分野で新しい議論がなされている。小論文の出題をする大学の教授や准教授レベルの人たちは、ふだんからそれらの議論を追いかけ、思想問題に親しんでいる。なかには、自分でも論文や本を書いている人もいるだろう。
出題者たちはそのような問題を、現代人であれば絶対に考えておいてほしいと思っている。ところがいまの高校は、生徒にそのような指導をしていない。そこで、自分が考えている問題についてやさしく書かれた文章を入試問題に出して、受験生に少しでも考えさせようとしているのだ。(47頁)

研究者たちが蛸壺に引きこもることなく、知を引き継ぐ若い世代に学問の面白さを伝える手段として小論文を使っているのであれば、それは積極的に評価されるべきことだろうと思う。
書くことで理解の曖昧さが少しずつ解消されていくことは、自分も経験的に知っている。著者の言う「作文教育」しか受けてこなかった人にとっては、論理的文章を書くことの敷居は高く感じられるかも知れないが、本来書くとは大げさなことではないということがわかる本である。