つれづれエッセイ:「1冊をじっくりと」vs「いっきに5冊」


あるテーマについて論文なりペーパーなりを書かなくてはならない時、そのテーマに関する論文や文献を大量に読むことになるわけですが、その際にノートを取りながら読んだり、あるいは読み終わったあとにメモやカード取りをし、それが終わってから次の文献に進むという読み方と、とにかくいっきに5冊ほど読んでしまい、ノート取りはやらない、カード取りも必要最小限にするという読み方に大雑把に分けた場合、結果的にどちらがいい論文を生み出せるでしょうか。


多くの読書家の先輩方は、どうやら後者を選択しているようです。特にそれまでほとんど調べたことのないテーマについては、入門的な本をまとめて数冊読んでしまい、それから簡単に論点を整理したり、それに対する自分の意見や批判を書きとめたりするだけのほうが効率的だということです。


かつて父が「いくら本を読んでも、自分にはそれが全く残っていない。ところが同じ世代の研究者たちがやっていることを見て、自分は「あっ!」と思った。それはカード取りだった」という話を自分にしてくれたことがありました。確かに、読み終わって「あー、面白かった」と言ってそのまま放置しておいた本は、その内容については、よほど印象的な内容でない限り、数ヵ月後にはもうほとんど覚えていません。あれだけ時間をかけかつそれなりに苦労して読破した本が、少し時間が経っただけでもう何も残っていないというのは、かなりショックなことです。頭では「人間は忘れる生き物であり、忘れることを恐れては何もできない」とは思っていても、やはりなにか虚しい気分になってしまうのです。


だから自分も最初のうちはカード取りを真似ていましたが、今はパソコンで「印象に残った箇所を書き写し、かつそれに自分なりに見出しをつける」、そして必ず「自分なりの意見や批判を書く(つまり書評を書く)」という作業を続けています。検索も自由にできます。ところが自分を雑読人間と呼びながら、(悪い意味で)完璧主義的なところがある自分は、やはり1冊読み終わってからこの2つの作業を終えるまでに時間がかかりすぎています。その間におそらく別の1冊を読み終えられるでしょう。


そしておそらく間違いないのは、1冊読み終えてすぐその本に自分なりの判断を下すよりも、他の本も何冊か読んでからのほうが最初に読んだ本に対する視点も幅広くなり、結果としてそれがいい論文を書けることにつながるのだということです。


孫引きになりますが、立花隆はこう書いているそうです。

ノートを取って一冊の本を読むことで頭に残ったものと、ノートなしで五冊の本を読んで頭に残ったものとを比較してどちらが豊かかを考えてみれば、文句なく後者である。(立花隆『ぼくはこんな本を読んできた』)(日垣隆『売文生活』153頁)

まさしく今自分が書いたことと同じことですね。


論文やペーパーには当然期限があります。限られた時間内で必要な情報をできる限り広くたくさん入手しなくてはならず、1冊の本にいつまでもこだわっている時間は、本来はないはずです。だから、自分ではちゃんと勉強しているつもりでも、その結果できあがった論文の内容が、いまいちぱっとしないものになってしまう。そして、最初に読んだわずか数冊の本から得た知見やそれらに下した自分の浅薄な評価を多少拡大させて書くだけで、さもテーマ全体を論じたような気になってしまうという致命的な過ちを犯してしまうわけです。これは情報革命の時代を生きる人みんなに言い得ることでしょうが、テーマを絞って論文を書かなくてはならない自分のような人間にとっては、より致命的なことのように思われます。むしろ「一冊読みきってしまう」という考え方自体がすでにもう過ちなのかも知れません。小谷野敦が学者・評論家という職業について、以下のように書いています。

とにかく、時間を惜しまなければならない職業である。本を読むにしても、一冊の本にとりかかったら、たとえつまらなくても最後まで読み通さないと気が済まない、というような人がいる。これは、学者・評論家には向いていない。「読む価値なし」という見極めは早くつけて放り出すのがいい。もし、後ろのほうに自分にとって重要なことが書いてありそうだったら、飛ばし飛ばし読むといい。むかし「クイズダービー」というTV番組で、フランス文学関係の問題が出て、フランス文学者の篠沢秀夫が間違えたことがあった。司会の大橋巨泉が、教授、知らないんですか、と訊いたら篠沢は、「本を全部読んでたら学者なんかできない」と答えたのである。これは篠沢が優秀な学者であることを如実に示している。もちろん、いま自分が論じようとしている対象は、熟読すべきであるのは言うまでもない。(『評論家入門』135〜136頁)

時間との闘いである場合、本はどんどん「つまみ食い」すべきであって、間違った完璧主義は逆に「不完全な結果」を生み出すという皮肉が起きてしまう。とにかくどんどん読むこと。まして博士論文のレベルになると、論文のテーマに関係する文献(のうちで読む価値のあるもの)はほぼ全て読んでいなければならず、テーマによってはそれらの文献を最初から最後まで全部読んでいたら一生かかっても読みきれないくらいの量の文献が存在します。そういう場合はやはり必要なところを拾い読みし、どんどん飛ばし読みしていかないと到底間に合わない。でも、一番重要なゴールは「いい論文を書くこと」であって、「読んだ本の内容をどれだけ詳しく正確に覚えているか」を競っているわけではないので、それでいいのだと思います。やはり基本的には「1冊をじっくりと」よりも「5冊いっきに」のほうが、少なくとも自分にとっては選択すべき読書法であると思います。