物書きになるには

いま文章を書くことと格闘している人に、何かの参考になるかも知れません。印象に残った箇所が多くてあまり脈絡はないですが、小谷野敦『評論家入門―清貧でもいいから物書きになりたい人に』(平凡社新書)から引用。

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数学や物理学なら、ある限定された知識に基づいて何らかの結論を引き出すことができる。ところが、こと文藝評論とか人文学評論で、ちょっとしたことを言おうとすると、知識量がものを言う。つまり、知識が大してなくても、基本的な訓練の上に半年の調査をすれば、近世の随筆の作者について論文は書けるけれど、仮説を立てようとすれば、知識量が多ければ多いほど緻密な仮説、正確な仮説が立てられるのであり、そもそもこの世に、古今東西のあらゆる文書を読んだ人などいないのだから、知識の乏しい人の仮説より、知識の多い人の仮説のほうが正確、厳密になる。これは当然のことだ。

これは日常会話でもよくあることで、『そんなの、みんな知ってる』とか『みんなそう言ってるよ』と、つい言ってしまうのだが、訊いてみると、二人だけだったりするのである。『AERA』や『SPA!』のような雑誌が、僅か二、三人の例をあげて『今こういう男(女)が増えている』などと胡散臭い記事をよく掲げるのは有名な話だが、文章を書く際にも、心してもらいたいものである。つい『評論』となると筆(キーボードを打つ指?)が滑って、一、二の例をもって全体を指すような記述をしてしまうものだ。

学問の当否は、その人に愛情があるかないか、謙虚さがあるかないかとは、別である。いくら愛情を持っていても、謙虚であっても、間違っていれば、どうしようもない。どれほど美しい文章で書かれた論文でも、間違っていることはあり、どれほど下手な文章で書かれていても、正しいということはある。学問にとって必要な美徳は、勤勉と誠実であって、愛情や謙虚さではない。

最近の大学院生あたりがバイブルのように扱っているベネディクト・アンダーソンの『想像の共同体』なんて、『共同幻想論』(吉本隆明)と言っていることは同じじゃないかと思うのだが……。

私はこういう、アカデミズムとジャーナリズムの対立は不毛な面が少なくないと思っていて、アカデミズムはもっと寛大であってもいいと思うし、マスコミ系学者はもうちょっとまじめに書いてほしい、と思っている。

精神分析というものが、元来そういう性質を持っているのだが、臨床をして年功を経た者でないと分からないものがあって、テーゼの内容を言葉では伝えられない、というのは、『禅』めいている。学問というのは、言葉で内容をちゃんと伝えられなければいけないので、そうでないものは宗教である。

言うまでもないことだが、評論家を目指すとしたら、とにかく読書が好きでなければならない。作家で、読書が嫌いだという人もいるけれど、作家ならそれでもいいかもしれないが、評論家はそうはいかない。だから、遊ぶのが好きだとか、大酒呑みだとかいう人は、評論家に向いていない。パーティーなどに出ていても、まっさきに帰るようでなければならない。競馬が好きで競馬評論家になるとか、美食が好きでグルメ評論家になるとか、そういうことはいいけれど、文藝や社会の評論家で、競馬やら美食やらが好きだというのは、あまり優秀な評論家にはならないだろう。

明治期の英語学者、斎藤秀三郎は、学問に費やす時間がもったいないので、手紙が来ても内容が分かるものは開封せずに放っておいたという。また、七人の子供を作ったが、その七人の結婚式にはどうしても出席しなければならないから、一生のうち七日だけ無駄な日ができると言ったそうである。それくらいの気構えが、学者・評論家には必要なのであって、世間から『義理知らず』『つきあいが悪い』と言われたり、妻から人非人と言われたりすることくらいは、覚悟しておくべきである。

とにかく、時間を惜しまなければならない職業である。本を読むにしても、一冊の本にとりかかったら、たとえつまらなくても最後まで読み通さないと気が済まない、というような人がいる。これは、学者・評論家には向いていない。『読む価値なし』という見極めは早くつけて放り出すのがいい。もし、後ろのほうに自分にとって重要なことが書いてありそうだったら、飛ばし飛ばし読むといい。
むかし『クイズダービー』というTV番組で、フランス文学関係の問題が出て、フランス文学者の篠沢秀夫が間違えたことがあった。司会の大橋巨泉が、教授、知らないんですか、と訊いたら篠沢は、『本を全部読んでたら学者なんかできない』と答えたのである。これは篠沢が優秀な学者であることを如実に示している。もちろん、いま自分が論じようとしている対象は、熟読すべきであるのは言うまでもない。