「社会人大学院」本2冊書評―方法論とは何ぞや

社会人大学院へ行こう (生活人新書)

社会人大学院へ行こう (生活人新書)

私の社会人大学院体験記

私の社会人大学院体験記

今日は書評というよりも、この2冊を読んで考えたアカデミックな「方法論」についての考察です。
*     *     *     *     *     *     *     *     *
前者は新聞広告で、後者は古本屋で偶然発見した本である。

読んでわかったのは、当然のことながら、社会人は現実に仕事の中でいろんな問題に直面しながら、そこから問題意識を引き出していることである。問題解決能力の向上という大変クリアな目標が彼らにはある。

しかし、いくら社会人大学院生とは言っても、ケースの研究ばかりやって実践力を上げるだけでは、大学院に来た意味は半減する。いい意味でのアカデミックな議論にも通じることで、もっと包括的に状況を捉えることのできる力をつける必要がある。それはこの2冊の本の中で体験記を書いている人々に多かれ少なかれ共通している考えだと思う。

では理論に裏打ちされたアカデミックな分析を、自分の修論やレポートで書くために不可欠なものは何か。それは、やはり方法論なのである。そして独自の方法論をしっかり持つということが、アカデミズムにあまり縁のなかった社会人院生にとって最も困難な課題となる。

「多くの社会人は、程度の差はあれ、現実に即した問題意識を抱えて大学院に来るため、研究の内容に関しては、ある程度の勘がきく。また、強い動機をもって大学院に入るために、先行研究についての学習は順調に進む場合が多い。ところが、研究の方法論については学部からストレートであがってきた大学院生と同じ土俵に立つことになる。同じ土俵ということであれば、学部からあがってきた学生のほうが若くて時間があるので、往々にして自分より若い人のほうがよくできるということになる。研究の方法は、社会人大学院生の鬼門なのである。」(山内・中原、171〜172頁)

では研究の方法論にどう立ち向かうか。

「研究の方法論だけ抜き出して先に勉強をしておくという方法もあるが、実際には、どんな方法が必要かは、研究のテーマと連動しているので、それだけを切り離して対処することは難しい。」(同上、172頁)

まさしくその通りだ。方法論をしっかりと構築するには、生き生きとした問題意識が不可欠である。さて、問題は方法論とは何か、である。先日読んだ『国際関係研究入門』の中の山影進の論考に依拠して方法論を具体的に考えてみる。山影の論文を自分なりに噛み砕いて、方法論の具体的内容を挙げてみると以下のようになると思われる。

①合理性に対して自分はどのような立場を取るか。つまり、合理性をある程度まで前提にして論じるのか、それとも合理性の限界を前提にして制度や規範の重要性を強調するのか。

②システムを軸に論じるのか(部分の総和=全体ではない)、それとも全体を構成する個々の要素の戦略的主体性を重視して論を展開するのか(ゲーム論が代表的)。(専門的に言えば、システム論的アプローチか、それとも方法論的個人主義か。)

③表現手段をどうするか。数理モデルを使うか、統計分析や計量分析を使うか、それとも非数学的な手法、つまり比較分析やケース・スタディを使うのか。

かなり抽象的な議論に聞こえるが、実際にこれらの問いに答えられなくては独自の方法論を確立することは無理だろう。むしろこれまではこうした方法論への関心が低すぎたと考えるべきかも知れない。

欧米には「社会人大学院生」などという言葉は存在しないという。そして、仕事を持っている院生だろうが、学部から上がってきた院生だろうが、大学院生はみな自分の研究をするために方法論を極めて重視するのである。自分の立場を明確にして相手に理解してもらおうとする情熱が、日本の院生と欧米の院生では根本的に違うような気がする。どちらの主張がより緻密で論理的に優れているかは、火を見るより明らかである。