桜井邦朋『大学教授―そのあまりに日本的な―』(地人書館、1991年)書評

自称「はみだし人間」(あとがき)による、日本の大学の閉鎖的な体質に対する告発には十分説得力があるし、著者の考えの多くは最もなものだと思う。日本人の場合、書物や論文、新聞を読む時に、批判的な目をほとんど持たずに読むのだという指摘(36〜37頁)は、自分がこうして書評を書くことに意味を与えてくれるものでもあった。

しかし、全体的に見て、同じことを何度も繰り返し主張してうんざりさせたり、受験勉強に対する偏見が強いような気がした。受験勉強の弊害は数多の評論家が指摘してきたことだが、「そんな主張に統計学的根拠はない」と言い切る和田秀樹の議論の方がアピール度は強い。全体的にはどうも印象のみで議論をしている観が拭えない。教養教育の目的が「人間としての立派さ」(62頁)を身に付けることだなどと言っているのも、曖昧すぎる上に胡散臭い。

それにしても、「専門などいつ変わるかわからないのだ」(200頁)と喝破した著者のかつての同僚の言葉は、「早く専門を決めろ」とか「テーマを絞りなさい」と口を酸っぱくして言う日本の大学の先生方と何という違いだろう。日本では「雑学者」に対する否定的な評価がかなり強いが、世界的に見れば多くの優秀な研究者はいくつもの分野に渡って研究成果を出しているという著者の指摘は傾聴に値する。というのも、留学中の友人が留学先で研究テーマを少し変えたことを日本での指導教授に伝えたところ、「留学してから研究テーマが変わるなんて本末転倒だ」と言われたと聞いたからだ。何と何が一体本末転倒なのか。ましてや彼女の場合は「国際協調のゲーム論分析」から「東アジアの安全保障」に変えたのであって、相乗効果を及ぼす可能性の高いテーマである。この程度の変更も認めないとすれば、どうやって研究の幅を広げるというのだろうか。こういう事例に遭遇するたびに、日本の教授の視野の狭さが余計際立つことになるのである。このことだけでも本書を読んだ価値はあったかも知れない。