藤原帰一『戦争を記憶する―広島・ホロコーストと現在』書評

戦争を記憶する 広島・ホロコーストと現在 (講談社現代新書)

戦争を記憶する 広島・ホロコーストと現在 (講談社現代新書)

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本書の目的は、「それぞれの当事者が当たり前だと考えている戦争の記憶と、そこから導かれた行為規範が、どれほど歴史的に拘束された存在」(39頁)であるのかを、いくつかの国における実例を挙げて提示することである。それによって「戦争の記憶が生み出した社会通念やイデオロギーを、歴史的・状況的に、相対化して捉える」(197頁)ことが可能となると著者は考える。それぞれの国の国民が決して手放そうとしない「国民の物語」を、客観的な事実に基づいてどちらが正しくてどちらが誤っていると判断するのではなく、そうした対立する「国民の物語」がどのようにして生まれてきたのかに焦点を当てるものである。そのような著者の試みを自分は好意的に評価したい。そして戦争の記憶という「怪しげなテーマを選ぶ背景には、現在の国際関係を分析するだけでは現実の国際関係の説明ができなくなった、という事情がある」(8頁)という著者の問題意識には、強く同意する。

がしかし、読後にどうしても釈然としないものが残る。その理由は自分にははっきりわかっている。藤原は戦後啓蒙の限界について、こう語っている。

国民意識から言論を解放し、政治的拘束や固定観念にとらわれない思惟を展開したことが、戦後啓蒙の栄光だった。ところが、そのかつての「国民」に代わるものとしてどのような政治社会を構成するのか、その点では戦後啓蒙の議論は奇妙に静かである。(161〜162頁)

そしてそのような戦後啓蒙の代表的存在である丸山真男について、「丸山真男の語る政治的自由とは、政治権力に対する異議申し立てとしての自由に集中しており、権力をつくる自由はほとんど語られない」(162頁)と指摘する。ところが、そういう藤原自身、本書の最終ページに至るまで、「大文字の」国民としての経験に代わりうるものを提示できてはいないのである。自分が釈然としないのは明らかにそのためである。「戦争の記憶の相対化」は確かに必要な作業ではあるだろうが、そうした記憶が社会的・歴史的に拘束されたものであるのは言ってみれば当たり前のことであって、それを指摘すること自体には特に新しい意義はない。「大文字の」国民的な物語に収斂させることもなく、そしてあやふやな記憶に基づいた「小文字の」私的な記憶を権威化させることもないような記憶のあり方、それを提示することに、結局著者は成功していないのである。

そのような記憶のあり方の可能性を秘めているものとして、藤原は郭宝崑の戯曲、ベトナム戦争記念碑、沖縄南部の慰霊碑を挙げている。しかし自分には、これらが「国民の物語」から独立したものとは到底思えない。郭宝崑は、中国人としての「国民の物語」を持っていたからこそ、殺人者であったはずの日本兵にとっての喪失にも想像力が及び得たのだと思う。ベトナム戦争記念碑は、「死者を見つめる、静かな視線」(195頁)を持っているとしても、それがアメリカ「国民」に向けられているものであることに変わりはない。他の国民への想像力は、国民という枠組みを相対化するというよりもむしろ、「我々が尊重している物語と同様、彼らにも尊重する物語が存在している」という論理で、むしろ「国民の物語」の意味は強められる。それでは「国民の物語」を超えたとは言えない。

その他にもこの本には不満な箇所がいくつかある。戦後日本における平和主義対現実主義の構図を説明する箇所(137〜138頁)は、著者の現実主義に対する嫌悪感から来る偏った見方のせいで、これではとても現実主義の説明になっていないと感じた。また、「国家の伝統や栄光を確認しなければ自分の生きる意味も確かめられない自我とは、ずいぶん弱い自我ではないか。悲しいことだ、と私は思う。」(171頁)と述べている箇所からは、「国民の物語」(ナショナリズム)のためにどれほど多くの人が殺し合い、また今もそれに執着しているのかという現実への厳しい視点は伺われない。

にもかかわらず、国際政治学者である著者が、国際関係の時事解説だけでは現実の国際関係を説明できなくなったという危機感を持って、激しく対立する戦争の記憶を冷静に見つめる契機を与えようと試みたことには、やはり賛同せざるを得ない。アメリカにおけるエノラ・ゲイ展示論争、日本における歴史教科書論争(日韓間の従軍慰安婦問題)、そして日中間の南京大虐殺論争など、全てが戦争の記憶をめぐる争い(memory wars)である。いつまで経っても感情的な論争から抜け出せないこれらの問題を考えるためには、やはり藤原の持つ問題意識は貴重だと自分は思う。