小森陽一、高橋哲哉編『ナショナル・ヒストリーを超えて』書評

ナショナル・ヒストリーを超えて

ナショナル・ヒストリーを超えて

坂本多加雄佐伯啓思が説く「国民意識の再構築」に共感したため、それに対する反論を展開する側の主張にも耳を傾けようとしたことが本書を読んだ動機である。しかし読む前に予想していた以上に、いろいろなことを学ぶことができた。とりわけ、坂本や佐伯の主張する「国民意識」、または反論者側が頻繁に使う「国民の物語」の構築が、そう単純な問題ではないのだということを痛感させられた。しかしながら、執筆者18人の論調はそれぞれに全く異なっており、中には何を言いたいのかよくわからないもの、用語や文体において到底読者に理解させようという気がないとしか思えないようなものもあった。とりわけ自分が感じたのは、本書のタイトルである「ナショナル・ヒストリーを超えて」という目的に資する内容の論文は、数えるほどしかなかったということである。「ナショナル・ヒストリーを超える」ためにはどうすべきか、どう考えるべきかということについて正面から扱ったものは、姜尚中岩崎稔鵜飼哲だけであるように自分には思われた。その他の論者については、「ナショナル・ヒストリーを超える」という目的とは全く離れたところで議論を展開していたり(当然その中には面白くて優れたものもある)、簡単に言及しこそすれ、それが到底「ナショナル・ヒストリーを超えた」とは言えないようなものが多かった。以下ではその「ナショナル・ヒストリーを超える」という点に焦点を当てて、いくつかの論者の主張を考えてみたい。


小森陽一「文学としての歴史/歴史としての文学」

本論文についてはあまり言うことがない。文体が自分にはとても分かりづらかったし、言いたいことがよく理解できなかった。ただ、その中で紹介されている加藤典洋高橋哲哉の論争については、「国民意識」に関わる問題が現れているように思う。

このような分裂(「内向き」の改憲派と「外向き」の護憲派の分裂―評者)があるから、日本人は「戦争責任」を負うことのできる一つの主体を持ちえていないのであり、「われわれ日本人」という共同主体を立ち上げるためには、護憲派のようにアジアの二〇〇〇万人の死者だけに向かうのではなく、まずはじめに日本の兵士を中心とした三〇〇万人の日本の戦死者を先に弔い、そこをとおって、アジアの死者に向かうべきだ、と加藤は主張したのである。この加藤の主張に対して、高橋哲哉は、それがナショナリズム復権する議論であるとして反論した。高橋は、「われわれ日本人」を立ち上げないとアジアの死者に向き合えないなどと言うべきではない、まずアジアの死者に向き合わなければ、「われわれ日本人」を立ち上げることもできないと言うべきだ、と批判したのである。高橋の議論に即して言えば、他者との関係ぬきに、自己の主体性や同一性を構築することは不可能であり、もし他者との関係なしに自己を構築した場合には、必ずあからさまな暴力性がそこにあらわれるからである。(14〜15頁)

高橋哲哉の批判の全文を読んでいるわけではないので安易に言及はできないが、少なくともこの箇所だけを見ると、「われわれ日本人」という日本人としての国民意識を構築すること自体の是非は問われていないのである。自国の兵士の戦死者とアジアの死者をわけて考えることの無意味さについては、本書で李孝徳が述べている通りだが、いずれにせよここで争われているのは「まず自国の戦死者かそれともまずアジアの被害者か」という順序の問題であって、その先に来る「われわれ日本人」という主体性の構築が、そもそも必要なのか必要でないのかについては何も言われていない。このことが「ナショナル・ヒストリーを超える」ための答えになり得ないことは明らかである。


李孝徳「「よりよい日本人」という形象を超えて」

この論稿についても焦点は「国民意識構築の是非」である。以下の引用に明らかなように、著者の主題は「日本人の誇りを語る際の他者性の欠如」である。

注意しなければならないのは、この「日本人の誇り」は、決して非・日本人に対して語られているものではなく、「われわれ日本人」に帰属する者がその帰属を前提であると同時に権利として、「われわれ日本人」に対して訴えているものにほかならないということである。すなわち、ここで口にされている<誇り>とは、あくまでも「日本人」の、「日本人」による、「日本人」のための<誇り>にほかならず、戦争責任の問題は「日本人」の問題に回収されてしまい、いわば「日本人」の内輪のなかで、「よりよき日本人」であるための<誇り>の争奪戦として議論が応酬されているのである。(原文傍点)(113〜114頁)

本来、非・日本人との関係のなかではじめて意味を持つはずの「日本人の誇り」なる言辞が非・日本人を対象化しないままにやり取りされ(114頁)

「他者」との社会的な関係のなかではじめて意味を持つ「日本人」というカテゴリーが、その関係性を捨象したところで実感として立ち上げられ、「弔う」ということのなかで権利が問われることになって、結局は「他者」が切り捨てられてしまっている(115頁)

「国民」という具体的な対面関係を超えてつくられる統一体を「想像の共同体」として論じたのはベネディクト・アンダーソンだが、この統一体はあくまでも他者を経由した反照としてしか想像されないことを確認する必要があるだろう。(116頁)

語りうる者と語りえない者を峻別しつつ、ただ「日本人」のなかでのみ都合よく共有されるために語られる/語られてきた、「よりよき日本人」であるための「ナショナル・ヒストリー」が、批判的に超えられなければならない(121頁)

ここでの議論は、「ナショナル・ヒストリー」がこれまで非・日本人である他者を排除してきたという事実に依拠して、そのような「ナショナル・ヒストリー」は超えられるべきだとされる。しかしそれはナショナル・ヒストリーそのものを超えることと同義なのであろうか。言うまでもなく、「国民」という枠組みは、個人や集団にまつわるあらゆるアイデンティティと同様自他の区別が存在し、そこにおいて非・自己が区別・排除されることは避けられない。しかし、都合のいい物語のみをかき集めて、負の歴史を抹消することがナショナル・ヒストリーを指すわけではないはずである。「他者性の欠如」を衝くだけでナショナル・ヒストリーの語りの本質を乗り越えられるとは思えない。


姜尚中「国民の心象地理と脱‐国民的語り」

ここに来て初めて(であると自分は思った)、「正史」としてのナショナル・ヒストリーの暴力性が歴史的事例を通して指摘されている。まず、姜は、「自由主義史観」のようにアイデンティティの「再領域化」を行おうとする動きがなぜ今、世界中で起きているのか、その背景について説明している。

地政学的なめまいは、よりグローバルに言えば、冷戦の終焉とともに、米国のヘゲモニーのもとで確立された地政学的な世界秩序の経済的、イデオロギー的な「脱領域化」が劇的な形で進行し、国家間システムの社会的な空間のトリアーデ(主権国家・領土的統合・共同体的同一性)の安定性がゆらぎはじめていることと無縁ではない。だからこそ、ある種のファンダメンタリズム原理主義)の台頭にチャンスがめぐってきたのだ。(144頁)

そして脱領域化と同時に、再領域化の条件が作り出されたことを、テュアサイルの以下の引用を通して指摘する。

しかし、脱領域化は同時に、分裂した旧い秩序の信条や慣習、実践や物語の断片を活用する秩序の再領域化のための条件をつくり出すことになった。地政学的なめまいの経験のなかから、グローバルな流動化のただなかで同一性(アイデンティティ)を再び安定化させ、その再領域化をはかるために、国家と領土、共同体的同一性の新たに想像されたヴィジョンが投企されようとしている。(144〜145頁)

では以上のような背景を持ちつつ現れてきた「ナショナル・ヒストリー」再構築の動きは、なぜ批判されねばならないか。姜は、司馬遼太郎が1905年の日露戦争から1945年の終戦までの時期を「鬼胎」であったと見なす歴史観は、戦後という第三の開国を、

明治国家が切り開きながら完遂しえなかった第二の開国を成し遂げるというナショナル・ヒストリーに転化する(149頁)

ものであると言う。そしてそれが植民地帝国としての日本の負の遺産を切り離し、その記憶は巧妙に忘却されてきたと指摘する。

戦後の始まりは、まさしくそうした国民の混成的な編成(「日本人」であった朝鮮人や台湾人を含む日本の国民構成を指す―評者)を「内地日本主義」へと暴力的に収縮させつつ、植民地帝国以前へと復帰していくことであった。(154頁)

それによって切り捨てられた「日本人たち」についての記憶は、

暴力的な忘却とナショナルなものへの「再領域化」のなかで行き場所を失いさ迷いつづけなければならなかったのである。(同)

冷戦と重なる戦後50年の歴史は、「脱植民地化」が冷戦体制からの要請によって停止・抑制された時期であった。そして冷戦の終焉と同時に、この「脱植民地化」が再び始まることになる。

日本の場合には、非軍事化と区別される脱植民地化それ自体の国内的影響は、比較的小さいものに止まった。つまり脱植民地化固有の問題が非軍事化一般の問題に解消された。しかも脱植民地化は、冷戦の進行と重なった。占領政策の転換によって促進された日本の政治的経済的再建は、冷戦の要請に応えるものであった。そのことは日本の旧植民地及び占領地の脱植民地化にも影響し、それは冷戦の戦略的必要から、冷戦における日本の役割を阻害しない限度に凍結された。今や冷戦の終焉によって、日本にとって未済の脱植民地化(いわば脱植民地化の第二段階)が始まったと解すべきであろう。(150頁、三谷太一郎の引用)

このような認識に立って、姜は、改めて「脱植民地化」が進められるべきこの時期に、ナショナル・ヒストリーという「再領域化」へと歴史の語りを回収しようとする動きが出てきたことに警戒を発しているのである。それは、前述したような戦後におけるナショナル・ヒストリーへの回収が、「日本人」の切り捨てを伴う暴力的なものであったことに対する強い反発に基づいている。戦後に限らず、歴史的に「国民的語り」の持つ暴力的な側面は成田龍一の分析によっても明らかにされている。もし仮にナショナル・ヒストリー、そしてそれに伴って国民意識の再構築を目指すとしても、こうした歴史的な「ナショナル・ヒストリーの暴力性」を念頭から外すわけにはいくまい。

しかしそれでもなお、自分としては「国民的語り」が持つ本質とは、そうした暴力的な側面にのみ集約されうるものなのだろうか、という疑問がある。その危険性・暴力性に目をつぶるわけにはいかないが、それでも他方で「国民的語り」の持つ躍動感と求心力は、別の観点から評価されても良いのではないだろうか。(例えば、Lewis CoserのThe Functions of Social Conflictの中の「Group-Binding Functions」は何か示唆を与えないだろうか。)


岩崎稔「忘却のための「国民の物語」」

ここでは、著者が「新しい歴史教科書をつくる会」の「中心に迫り出してきて」(175頁)いながら、「かれの仕事それ自体を取り上げた批判的な文章は意外なほど少ない」(同)と考えている、坂本多加雄に対する異議申し立てが行われる。その批判の対象となるのは、坂本が「国民の物語」の再構築を提唱していることである。「国民の物語」そのものの是非を真正面に据えている点で、岩崎の論文は異彩を放っている。

岩崎は、坂本が「国民の物語」を正当化するために、論理のすり替え、意図的な混同、戦後啓蒙の≪横領≫が行われていると批判する。

歴史叙述を「物語」のひとつとしていったん相対化する作業は、歴史学そのものがしばしば不問に付してきた次元への再帰的反省として、つまり特権的に語っている歴史家ないしは語り手の位置、価値観、語られている「事実」なるものの「理論負荷性」という問題として提出されていたはずである。それが、ここでは「フィクション」であるからこそ、かえってその虚構性のなかでの内的な確証が(真理性がではなく、当事者にとっての真実性のナルシスティックな確証が)優先されるべきであるという論理にすり替えられている。いかに、誰が、どこで語っているのかという発話の場の権力、ヘゲモニーを問うという基本的前提は、坂本の手で概念そのものが≪横領≫されることによって、無効化されてしまうのである。(原文傍点)(180頁)

しかし、われわれがまさしく問うべきなのは、このような国民史が、語りの実践によって何を排除し、何を隠蔽し、何を忘却しようとしているのかということではないか。(182頁)

また、丸山眞男が「しらす」と「まつる」という対比概念を用いて、「しらす」の主体がもっぱら「まつり」の内容を承認する「正統性」付与の主体となっていく、と述べている箇所を根拠に、坂本が象徴天皇制の背景を描写している点について、岩崎は以下のように批判する。

丸山真男が坂本によってこのように利用されるということに、あえてこだわっておく必要がある。(略)ここでは、成熟した市民的主体性を内発的に構成できない日本の政治構造の「範型」を批判する丸山のコンテクストが、同じ構造をむしろ日本の固有性として賞賛する坂本のそれにすり替えられている(189頁)。

そしてそのような≪横領≫を許してしまった責任は、丸山の側にもあるとされる。

丸山真男が、「明治の健全なナショナリズム」を限定つきではあれ想定していたかぎりで、丸山は坂本と≪通底≫してしまうという問題を最初から持っていたのではないのだろうか。国民的主体の独立という事態そのものを内側から解体する事について丸山に残されていた深刻な限界が、坂本においてもっとも無惨なありようでその帰結を示しているのではないだろうか。(190頁)

以上が岩崎による批判の大まかな内容である。まず、坂本の論からは、本来は「語り手が突きつけられるはずのより厳しい批判」(180頁)がすっぽりと欠如しているという批判について。いかなる歴史の語りも語り手の価値から自由ではありえないという点については反論する者はほとんどいないだろう。しかしながら、それは語り手に常に自己の相対的な位置を認識しておくことを要請するものではあれ、語りそのものを否定しているわけではない。価値相対主義とは、「何を言ってもよい」ということにはならないのと同時に、「何も言ってはいけない」ということを意味するものでもないはずである。このことは、語りによって排除・隠蔽・忘却されたものこそ問われるべき、という岩崎の指摘にも言えることであるが、ではいかなる語りが可能なのかという点が言及されていないのである。もし仮に、そもそも「国民としての語り」自体、不必要なものだという認識であるとするならば、「国民の物語」に伴う排除・隠蔽・忘却といった暴力性は、「国民の物語」を放棄することで本当に回避できるものなのだろうか。「語ること」とこの暴力性に必然的な関係性はないのか。

丸山眞男と坂本の≪通底≫について。丸山の論は、日本の政治構造に対する批判的なコンテクストの中で展開されたものであるにもかかわらず、坂本はその論を日本の固有性を賞賛する根拠に利用している、というのが岩崎の批判であった。しかし、このようなことを坂本が知らないで、あるいは意図的にやっているとは自分には思えない。坂本は丸山の「「国体」観念の持つ歴史的な動態的構造」(188頁)の分析を「きわめて要領よく簡略に表現したもの」(同)と言っているのであって、その「動態的構造」に対する両者の評価の違いを無視しているわけではない。この≪通底≫を通して丸山の「古層」論を批判的に論じるのなら話しは分かるが、それを坂本の「すり替え」と見なすのは穿ちすぎではないだろうか。

さて、この論文の締め括りで岩崎は、坂本が立てる「汝は何者か」という問いかけには、「何者でもない」という返答があらかじめ禁じられていると言う。「汝」は「アメリカ国民」や「イスラエル国民」でしかないし、わたしは「日本人」でしかない、というように。(191頁)しかし、酒井直樹の指摘として、岩崎は「「国民」とは、それがいかに自然なものとして経験的な具体性を帯びようとも、つねに「死産」としてしか生まれようがない観念である」(同)と述べる。なぜ「死産」としてしか生まれようがないのか。それは酒井の文献にあたるしかないが、本来はこれこそが自分の最も答えを期待していた問いであった。

また、

坂本におけるナショナル・ヒストリーの欲望にとっては、かつて「従軍慰安婦」であることを強いられた女性たちのぎりぎりの告発は、(略)とうてい還元不可能なラディカルな「否」であった(191頁)

と岩崎は言う。しかしこの元慰安婦の女性たちの告発は、日本政府でも従軍慰安婦に関わった人間でもない、日本国民全体に向けられていることは明らかである。負の歴史を抹消しようとする「物語」に対しては「ラディカルな「否」」ではあっても、そこではやはり国民という枠組みが相変わらず想定されざるを得ないのではないだろうか。加藤典洋の「まずは自国の死者の弔いを」という論も問題の本質ではないと思うが、「日本人」という枠組みで問題を捉える作業はまだ始まったばかりだと自分は考えている。


ヨネヤマ・リサ「記憶の未来化について」

著者は、「自由主義史観研究会」と「新しい歴史教科書をつくる会」が発足した90年代においては、日本の文化政治における記憶の状況は新たな歴史的局面に入っているという認識を示す。

自由主義史観の提唱者の言動が魅力をもつとすれば、それは記憶を否認し抑圧することで歴史を忘却しようとする、これまで長く戦後を支配してきた従来の態度と、九〇年代以降のより巧妙な記憶と忘却の政治との、その両者にこたえうるものであるからに他ならない。(232頁)

では後者の「より巧妙な記憶と忘却の政治」とはいかなる事態を指すのか。1993年に当時の細川護煕首相が「過去のわが国の侵略行為や植民地支配など」が多くの被害を与えたことを深く反省しお詫びの気持ちをもつ、と初めて明確に表明したのに続いて、1995年8月15日には、当時の村山富市首相が「首相談話」で

わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を進んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えた(以上『知恵蔵2002』393頁より)

と述べた。こうした一連の状況に対して、ヨネヤマは「それまでになかった歴史認識を公式化する契機となった」(233〜234頁)と一応の評価を与えつつも、このような過去に対する反省が、戦後一貫して負の記憶が忘却され続けてきた事実そのものを忘却してしまう、つまり「忘却そのものの忘却」(235〜236頁)を生み出してしまうと言う。そしてそこにヨネヤマは、国益という立場に立った反省と謝罪という隠された意図を読み取ろうとする。

冷戦下の歴史認識が政府間の沈黙と隠蔽の共犯関係であったとすれば、グローバリゼーションが加速化し、もはや冷戦のマスター・ナラティヴを維持する必要のなくなったいま、日本の過去の過ちを認め、反省し、場合によっては謝罪することが、国益という国民を単位として未来を考える視点からすればもっとも効率的な方策だと考えられていたとしても、不思議はない。(233頁)

では、もし日本政府による反省と謝罪の表明が国益という観点から発せられたものであるとするならば、そこにはいかなる結果が付随するか。

国家による謝罪と補償を求める日本での動きも、ナショナルな枠組みと民主的な公共空間とをすきまなく合致させることにより、日本人という国民的同一性をいっそう強固にする結果となっているかもしれないのである。それは、国家補償や謝罪の要求がどうしても、統合された国民の歴史という、共有された単一の歴史的時間性のなかで語られてしまう、ということにもよっている。(243頁)

日本人の過去を、日本人が、日本の未来のために思い出す。その対象が加虐の記憶であるのか、国民的体験として集合化された戦争被害の記憶であるのか、国家の過去の軌跡の賛辞であるのか、といった違いにかかわらず、そこには想起の主体と対象と目的とのあいだに、矛盾なく同一性が保たれている。反・忘却のディスコースがこのような視座からうまれているとすれば、他のアジア諸国やかつての日本の植民地支配下にあった人々は、日本人の謝罪―そして赦されたいという欲望―を投影する対象として、いまふたたび日本人という主体を補完する従属的な他者としての位置を与えられることになってしまう。このような補完的な他者性との関係が、ナショナルな自己を揺るがすことなく、むしろナルシシスト的な自己肯定へと陥ってしまうものであることは、すでに高橋哲哉加藤典洋への反論において論じたとおりである。(243頁)

このような認識に立ち、ヨネヤマは

周縁化された位置から解き放たれ、公的アリーナで主流化されてもなお、批判的で、変革的な危うさを生み、わたしたちをとりまく状況を動揺させるような、そのような過去の思い出し方、記憶のあり方とは、いったいどのようなものなのか(238頁)

と問題提起し、ヴァルター・ベンヤミンの言う「ヒストリカル・マテリアリズム」(239頁)にその可能性を見出そうとする。

ベンヤミンによれば、解釈学的な歴史主義や既成のマルクス主義歴史学においては、歴史の真実は永遠に過去に内在していると考えられるのに対し、ヒストリカル・マテリアリズムの手法では、過去の真実のイメージは現在と過去との弁証法的な対話のなかで、ほんの一瞬、現れるにすぎないものとして想定される。過去のある出来事を歴史上に復元できたからといって、その真理を把握できるわけではない。したがって、過去を並べあげることで歴史を再構成できると考えてはならない。大切なのは、「危機の瞬間に閃く記憶をつかむ」ように、それをあたかも過ぎ去ってゆく歴史の流れから切断された写真のショットにおさめるように、過去を想起することなのである。(239頁)

危機の瞬間に閃く記憶をつかむ」というのは、「別の言い方をするなら、それは過去の出来事を現在にとって極めて切迫した問題関心とかえてゆくような、記憶の弁証法としての社会実践なのである。(同)

「実際に起こった」過去の出来事のインヴェントリーを、起こったとおりに並びあげてゆくのではなく、「起こり得たかもしれないこと」、「起こり得た過去の可能性を摘みとってしまったもの」を描き出してゆくものだという点である。それは、果されなかった約束、回避しえなかった惨禍、実現できなかった夢、といった、いわば歴史の停止点ともいうべきものを探りあて、記憶の断片として集めてゆく。(239〜240頁)

「普遍的歴史」は、過去と現在の自動的な連続性を問わない。その結果、今ある知の現状を支持することになってしまうのに対して、ベンヤミンの想起と再記憶の手法は、「現在」を過去の延長上に置くこともなければ、歴史の流れの行き着く先としての「現在」を支持することもない。それはむしろ、「現在」とは異なる「今」へと歴史を導いたかもしれない、過去の危機的瞬間を探り当てようとするのである。(240頁)

思い起こされる記憶に「未来志向性」が付与されることによって、過去を知ることが、現状を肯定するのでなく、現在を積極的に変革してゆく批判的な歴史的想像力を養うものともなる。(242頁)

このような時間性にしたがって描かれる歴史は、未来を「今」の自然な連続線上に想定することもまた、拒否するのである。(同)

以上の認識に立つならば、加害の歴史を思い出す従来の「反・忘却」の試みが、かえってナショナルな枠組みを強化することに寄与してしまったのに対し、最近の「自由主義史観」に向けられる批判は、ナショナルな枠組みそのもの、すなわち「日本人による、日本人のための想起」(244頁)自体を問う姿勢を持つという点において、大きな違いがある、とヨネヤマは考える。

やや抽象的すぎるきらいがあるが、ヨネヤマの主張の核心は、「現在」を相対化するヒストリカル・イフを徹底的に問うてみることの重要性である。それによって「今の自分が置かれている状況」が必然でも宿命でもない、偶然の産物なのだということを認識することへとつながる。それによって都合のいい現状肯定も、また未来の変革を諦める悲観もともに否定されることになる。それはアカデミズムの世界にいる者にとっては、常に問われることになる姿勢だろうと思う。

しかし現実に生きている人々にとってはどうだろうか?もし仮に今の自分の存在が必然でも宿命でもないとするならば、自分が生きてきた過去にどんな意味があるのだろうか。自分が行ってきたことは必然でもないし、そうなる必要性もなかったとされたならば、人はいかなる存在意義を感じて生きていくことができるのだろうか。理念的にはヒストリカル・イフを問うことの重要性を理解できても、果たしてそれで人は自分の過去に何がしかの意味を与える「物語」を必要としなくなるだろうか。恐らく否、であろう。ここに相対主義のパラドクスがある。

たとえ「国民の物語」の暴力的な側面が明らかになっても、今まさに生活を営む人々にとっては、自分の過去に一つの物語を与える衝動を完全に消してしまうことはできないのではないだろうか。佐伯啓思が「保守的であること」の意味を、オークショットを引用しながら説く以下の箇所は、今まさに生きている人たちにとっては、より受け容れられやすいように思われるのである。

われわれは変化を求め、時には革新を求め、見知らぬものや神秘的なものにも惹かれる。これは当然のことである。ただ「保守的であること」が説くのは、もしそうだとしても、決して絶え間ない変化や革新や完璧さによっては生活は組み立てられない、ということにほかならない。保守的なものと革新的なものの両者が人生には必要である。しかし、生活の「基調」になるのはあくまで「保守的なもの」であって「革新的なもの」ではない、ということなのである。(佐伯啓思『国家についての考察』飛鳥新社、2001年、24頁)

抽象的・道徳的次元においては、現在の思考枠組みの脱構築という主張は支持しえても、実際に生活を営み安定を求める現実の次元においては、「物語」に対する需要がそう簡単にはなくならないことも他方で認識しておくべきではないだろうか。


鵜飼哲「ルナンの忘却あるいは<ナショナル>と<ヒストリー>の間」

鵜飼は、フランスの歴史家・文献学者エルネスト・ルナンが1882年に行った講演「国民とは何か」の中で、「忘却を「国民」の本質に結びつけた」(251頁)ことの理由を探る。

ルナンは、聴衆に向けて、フランスの「健康」のため、その「知的・道徳的改革」のため、忘却を、勧めると言うより命じているのである。このように、ニーチェの場合と同様ルナンによっても、忘却は「生」と結びつけられている。しかしルナンの場合にはよりはっきりと、それが「国民」の「生」と結びつけられていることに注意しなくてはならない。(260頁)

ではなぜ、当時のフランスにおいて忘却が「国民」の「生」と結びつくとルナンは考えたのか。

一八八二年のフランスで「国民とは何か」を問うことは、実は、二重の意味での「国民的和解」の構想と不可分だった。ひとつは、フランス革命以来の王党派と共和派の争いに、王党派にも歴史的正統性を認めつつ彼らに民主共和制が時代の必然であることを説得することによって終止符を打つこと、もうひとつは、パリ・コミューンであらわになった資本主義社会の階級的断絶を、人民主権と「国民」の原理を調和させることによって乗りこえることである。そのためには、フランスの、ヨーロッパの過去のひそみに倣って、この近過去の「内戦」を、「聖バルテルミの虐殺」や「一三世紀の南仏で起きた虐殺」と同様、忘却しなくてはならないとルナンは言うのである。(260頁)

このように忘却の積極的な意義を認めるルナンにとって、「国民」の暴力性を明るみに出す歴史学は危険な学問であるとされる。

忘却、歴史的誤謬と言ってもいいでしょう。それこそが一つの国民の創造の本質的因子なのです。だからこそ、歴史学の進歩は往々にして国民性にとって危険です。歴史的探求は、あらゆる政治構成体、もっとも有益な結果をもたらした政治構成体の起源にさえ生起した暴力的な出来事を再び明るみに出してしまうからです。(264頁、E.ルナン他『国民とは何か』インスクリプト、1997年、47頁)

鵜飼はそこに「歴史としての<ヒストリー>と<ネーション>の物語としての<ヒストリー>の落差」を見る。

今日この一節を読んで驚かされるのは、ルナンにとって歴史学が、なお、「国民」にとって危険な学問とみなされていることである。まるで、ナショナル・ヒストリーという表現自体が形容矛盾であるかのように。言い換えれば、歴史としての<ヒストリー>と<ネーション>の物語としての<ヒストリー>の落差においてこそ、ルナン的忘却は作用するのである。(264頁)

では、忘却が「国民」の本質であることを説いたルナンの「国民とは何か」は、いかなる今日的意義を持っているのか。

思えば「国民とは何か」は奇妙な作品である。忘却を命ずるこのテクストが「国民」的記憶の一部であるかぎり、その「国民」空間がつねにいくつもの忘却から出来ていることを読者はいやでも想起せざるをえない。そのような忘却を忘却する機制が働いたためか、ルナンおよび「国民とは何か」は、数十年の間、フランス本国で、一般には深く忘れられていたのである。翻って、今日、ルナンを想起することは、次のことを、少なくとも意味しうる。すなわち、「国民」空間が本質的に数知れぬ忘却から出来ていることを金輪際忘れてはならず、これらの忘却との別の関係を、そしておそらくは、「国民」的ではない別の社会的記憶のあり方を発明すべきこと。「国民」的記憶と同じように、あるいはそれ以上に、別様に生き生きとした記憶を。そのことを、今、もはや「国民」と呼ぶことのできない「私たち」の「生」が、求め始めているのではないだろうか。(原文傍点)(265頁)

この箇所から分かるとおり、鵜飼は、ルナンが「内戦」の和解のためにも「国民」は忘却を必要とすると説いたのを援用して、忘却そのものを問題視する契機を与えようとする。その理由は、

フランスでもしばしばみられたように、この講演の片言隻句が日本に住む外国人に対する排外的な、そして/または同化的な圧力の強化のために、要するに忘却の強制のために援用されることのないよう、問題点を明示しつつ、先行して紹介する必要があるという判断(原文傍点)(253頁)

があったためである。

しかし、「「国民」的ではない別の社会的記憶のあり方」、「「国民」的記憶と同じように、あるいはそれ以上に、別様に生き生きとした記憶」というものをより具体的に示してほしかった。確かに「国民」という枠組みには納まり切らない歴史の語りは存在しているだろう。しかしそのような歴史の語りにしても、「国民」としての記憶と必ず重なり合い、また重なり合うが故にそれだけ生き生きとする箇所もあるはずである。従って、「国民」的記憶とそれ以外の「社会的記憶」は、必ずしも対立的に捉える必要はないのではないかと思う。さらに、「国民」的ではない別の社会的記憶というものに、暴力的な側面はないのか、その点の検証も必要になると思う。