櫻田淳『国家への意志』書評

国家への意志 中公叢書

国家への意志 中公叢書

本書は、戦後日本の論壇において、国家が議論の対象から巧みに排除されてきたことに対して、若い世代の著者から異議申し立てが行われるものである。坂本多加雄西部邁らに見られるような「保守主義」に近い立場から、「国家の衰退」が一面的な現象に過ぎないことを指摘しつつ、今後の日本が取るべき、「国柄」に見合った政策とはいかなるものかについて、具体的な提言をするものである。そこで著者が主として提言しているものとは、①「貴族」階級の復活、②「内務省」の復活、③「富裕階級」の復活、④「執事国家」日本、⑤新「南洋」戦略、である。ここでは、評者が重要だと判断した①と⑤について、のちに簡単に説明する。

高坂正堯は、国家には三つの側面があると言う。「力の体系」、「利益の体系」、そして「価値の体系」である。これらの三つの側面は、それぞれ「国民の生命、身体、財産を守る」、「国民生活を向上させ福祉を増進させる」、「国民に対して、真偽、善悪、美醜の価値の基準を示す」という国家の役割に照応するものと著者は見る。(33頁)しかし戦後の日本は、敗戦による国家の破綻に対する反省から、もっぱら「利益の体系」としての国家の役割を重視し、国内外における「力の体系」としての役割に対しては、露骨に嫌悪感を示してきた。(それは、発足直後の自衛隊に対する、一般の評価の仕方に現れている。)さらに「価値の体系」としての役割に至っては、戦中の「大東亜共栄圏」や満蒙における「五族協和」などといったスローガンに対する懐疑心が強く、その重要性を主張する論は、戦後の言論界においては冷笑されがちであった。

近年グローバリゼーションによる「福祉国家の終焉」論が喧しいのに伴って、国家の役割の大幅な縮小が当然のごとく語られるようになっている。しかし、著者によれば、

『国家の衰退』論は、結局、国家の『利益の体系』としての側面に視野を限ったものでしかない(46頁)

と反論する。そして、

実は、国家の『利益の体系』としての側面が動揺しても、国家の持つ『力の体系』、『価値の体系』としての側面は、中々、消滅することはない(同)

と強調する。

実は、著者は「利益の体系」としての国家の役割が終わったとすら考えていない。戦後、国民が国家の「利益の体系」としての役割に過剰に期待し続けてきたのであって、それがもはや不可能になったからといって、「利益の体系」としての国家が消滅するわけではない、と。しかし他の側面、すなわち「力の体系」「価値の体系」としての国家の役割がこれまでほとんど真面目に論じられてこなかったことに鑑みて、これらの役割をどう再構築すべきかの方に焦点を当てる。とりわけ著者は「価値の体系」としての国家を重視するのである。そしてそこで出てきた提言が、前述の①「貴族階級」の復活なのである。

著者は、

凡そ、人間の欲望の向かう対象が、富、権力、名誉の三つにあるとすれば、現在の我が国においては、富、権力への欲望に対してしか、その受け皿は用意されていない(100頁)

という認識から、富でも権力でもなく、名誉を願う人々に対する評価の基準を確立すべきだと主張する。富や権力は目に見える形でその序列がはっきりと現れるので、そうした欲望の達成度を評価する基準は明白であるが、名誉を望む人間に対しては、それを評価し称えるための基準がない。そこで著者は現在の叙勲制度の大幅な是正を提言するのである。

一方、対外戦略については、海洋国としての日本の国柄から見て、南洋を中心とした「西太平洋海島諸国会議」の構築が提案されている(284頁)。もちろんそれは大陸国という国柄を持つ中国やロシアを除外・敵視するためのものではなく、日本と同じく海洋国家として「進取性」と「開放性」の価値を重視する国が集まり、海を舞台にした自由貿易の発展と航海上の安全保障(海賊からの保護など)のために協力するという性格を持つことになる。(274〜275頁)

さて、本書を読み終えて、福沢諭吉の『学問のすすめ』に言及しながら、国家を支える国民として「独立自尊」(301頁)の気概が必要だと説く箇所には概ね賛同している。しかしながら、全体を通して提言されていることに、どうしても無邪気さが拭いきれない観を抱いてしまうのは自分だけであろうか。確かに提言は具体的で、社会的な病理現象が目立つ現在の日本において、一つの理念として魅力を持っているようにも思う。しかし、「名誉の階梯」の再構築について私見を述べるならば、人間が追求する富、権力、名誉の三つは密接に関連しているものだと思うし、特に権力と名誉はほとんど表裏の関係にあるものなのではないか。だから、世界のほとんどの先進国においてそうであるように、「選良」の育成はその社会にとって決定的に重要なものであることには違いないだろうが、もし著者が「権力を求める人間」とは別個に「名誉を求める人間」を評価する制度を構築したいのであれば、「権力者の側からの評価」である叙勲制度を是正するだけでは、不十分なのではないか。

また、犯罪の凶悪化・国際化・組織化などに伴って、警察制度の再構築、すなわち著者の言う「内務省の復活」は、現状を考えるならば焦眉の急であることに違いないだろうが、そのためには警察自身が常々国民の信頼を得られるようもっと努力すべきである。本書の中では「通信傍受法」に対する楽観的な意見が述べられているが、それを利用する警察に対してきちんとチェック機能を果す制度も同時に必要となることは併記されるべきではないのか。

しかし全体を通して受けた無邪気さの印象とは反対に、

近年、高まりつつある『戦後民主主義』批判の議論は、国家という名の『怪獣』に向き合う怖さに対する認識を欠き、ただ単に威勢の良いだけのものであるならば、それもまた、現実の基盤を欠いた危険な観念論に堕すことになる(71頁)

と一転バランスを回復させるかのような慎重な議論を展開している点からして、決して単純な「強い国家擁護論」とは言えないのかも知れない。「国際情勢に与える影響という視点を欠落させた」(同)日本核武装論は、「唯一の被爆国」という事実を根拠にほとんど形骸化している「非核三原則の堅持」を唱えるのと同じくらい、情緒的で「『怪獣』に向き合う」覚悟のない議論であるというのは、全くその通りだと思う。若い著者が、今後「怪獣」の怖さを予想外に思い知らされることになるのか、それともその「怪獣」をうまく飼い慣らせる自信をますます強めることになるのか、無邪気に見える著者の今後の成長を、自分のそれと重ね合わせながら今後の議論を追っていきたいと考えている。