David Campbell, Writing Security書評④

sunchan20042005-08-28

【Chapter 3. Foreign Policy and Identity】

前章末の予告どおり、本章ではホッブズの『レヴァイアサン』の読み換えが行われる。これまで主流と見られてきた対外政策論、ひいては国際関係論の理論を批判的に再検証するという本書の目的に即して、ここではリアリストがしばしば依拠してきたホッブズの「万人の万人に対する戦争状態」という概念が取り上げられる。国家は(世界統一政府の存在しない)アナーキーな状態に置かれており、絶えざる権力闘争の中にあるとする大雑把な国際関係観がそれで(55頁)、リアリストの議論における重要な論拠となってきた。しかしながら、こうした国際関係に対する理解は、ホッブズのテキストに真に沿ったものであったのだろうか。Campbellによれば、そうした読み方はホッブズアイデンティティと秩序についての議論の中で果たす恐怖や危険の役割を誇張してしまっている(56頁)。

本来ホッブズの『レヴァイアサン』では、国家とは「万人の万人に対する戦争状態」を終わらせるために創り出されたものであったはずで、そうした状態に陥ることを避けるために、人々は「レヴァイアサン(巨大な海獣)」たる国家に対して権力を委譲し、自身の安全を保障することを提唱した議論であった。つまり、ホッブズが言う「自然状態」とは国家ができる前の人間関係を指していたもので、国家ができたあとに再びそうした状態に戻ってしまうことを恐れたことから生まれた議論であった(56頁)。すなわち、リアリストの「アナーキーな状態における国家間の絶えざる権力闘争」という前提は、ホッブズの「人間の自然状態」を国際関係にも適用することで成立しているのである。しかし、そもそもホッブズの議論の中では、主権国家の存在は「人間の自然状態」と比較してはるかに非破壊的なものとして描かれており(55頁)、本来国家はそうした自然状態を克服するものとして想定されているので、人間関係について論じた議論を無条件に国家間関係に適用することは「論理的には不可能」(55頁)である。

さらに言えば、この「自然状態」とは現実に存在する状態ではなかった。むしろそれは、主権国家が存在しなければいかに悲惨な世界が現出するか、いかに暴力的な死に直面する可能性が高まるかという恐怖を植えつけるための「ショック療法」(57頁)として機能した言説であった。従って、『レヴァイアサン』の中で描かれている自然状態に対する恐怖とは、そもそも人為的に構成されたものであった。すなわち、それは「脅威の言説」として見ることができるのである。「皮肉なことに、恐怖を克服するには恐怖の制度化が必要なのである。」(58頁)

これは、アナーキー下の国際政治における脅威の存在を前提とするリアリストの議論とは、異なる視点を提供するものである。そこで前提とされる脅威とは、ホッブズの『レヴァイアサン』に示されているように、主権国家の重要性を説くために人為的に構成されたものだということになる。理性の迷信に対する勝利は、「神の死」ではなく、「新たな倫理的神」(61頁)としての主権国家を創造した。教会が死に対して救済を約束したように、主権国家は脅威に対して安全を保障した。「結果として、国家は世俗化された終末論によって可能になったと見るよりは、むしろ一般化された憤りの政治を通じて行う集団的救済のための手段であると結論づけられる。」(61頁)

ホッブズの言う「理性の帝国(empire of reason)」(67頁)たる主権国家が迷信、レトリック、信仰に勝利を収めたにも関わらず、脅威の言説が主体の権威を高め、そしてその存在を保持する機能を果たしているという点で、中世の教会と近代の主権国家は見事に共通点を有している。現実には存在していない脅威を構成することによって人為的に差異を創出し、それによって自己のアイデンティティも形成していく。国家のアイデンティティとは、「排他的実践の結果」(68頁)であり、その結果「境界が作られ、空間に線が引かれ、正統性の基準が採り入れられ、歴史解釈が特権化され、そしてそれ以外の選択肢が辺境に追いやられる。」(68頁)こうした特性を持つ国家が生み出す対外政策とは、「近代における文化的人工物」(68頁)であり、「差異創出の政治的企図」(62頁)とならざるを得ない。

Campbellは本章の最後で、対外政策を二通りに分けている。便宜上、その二つを「foreign policy」と「Foreign Policy」に分類している。それは、対外政策の全てが最初からアイデンティティを創出する機能を有しているわけではなく、すでに作られたアイデンティティを再創出・強化する性格のものも存在しているからである。前者が「あらゆる差異化の実践と排他の様式」(68頁)を指し、曖昧さや偶然性に対処する新たなアイデンティティの創出の場を提供するものであるのに対し、後者は「foreign policyによってもたらされたアイデンティティの構成を再創出し、結果として生じたアイデンティティに対する挑戦を封じ込める役割を果たす。」(69頁)前者は個人の人間関係から全地球的な秩序に至るまで(エスニシティ、人種、階級、性別、地理など)あらゆるレベルの「対外政策」を指すものであるのに対し、後者はあくまで国家のレベルにおいての対外政策である。

次の4章では、政治的比喩としての「身体」に着目して、Foreign Policyの表現形態についてより詳細に議論される。5章ではそうした表現がアメリカ史の特定の時期においてどのように機能したかが著者によって考察される。