マーティン・ハーウィット『拒絶された原爆展』書評
- 作者: マーティンハーウィット,Martin Harwit,山岡清二,原純夫,渡会和子
- 出版社/メーカー: みすず書房
- 発売日: 1997/08/01
- メディア: 単行本
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【重要箇所のまとめ】
■ルーニー(陸軍航空軍の元情報将校)の激怒
「そちらは「人類一般の意見の尊重」という言葉をお引きになった。こちらもお返しをしようではないか。誰の言葉かもお教えしよう。ハリー・トルーマンだ。彼はこう言った、「真珠湾については誰からも謝ってもらってはいない」と。これは二つの点でもっと大きな問題につながっている。「人類一般の意見の尊重」などと言われるが、第二次大戦で戦った何百万というアメリカ人の意見をあなたは尊重しておられるのか。あなたは日本語をちゃんとお読みになるのか。それとも、あなたの意見というのは、国務省の言い草に、原爆を落としたアメリカを罰しなきゃならんという自分の考えをくっつけたものではないのか。…エノラ・ゲイを隠すことで、世界中の平和愛好家たちが究極的勝利を収めるのを助けてやれると考えているのか。お望みなら、この私だって、われわれが原爆を落としたことに感謝しているという広範な世論を日本に生み出すことができるだろう。なぜなら、われわれが落とさなかったら戦争は続いていたに違いない、と彼らが言っているからだ。」(30頁)
スミソニアンの運営に当たるのは評議員会であり、連邦最高裁判所長官が議長を務め、合衆国副大統領が副議長である。さらに、上院議員三名、下院議員三名、そして議会によって任命された民間人九名が評議員となって評議員会を構成する。評議員会は年に三回―一月末、五月初め、そして九月の第三週―、いずれも月曜日の午前に開かれることになっており、二時間続くのが普通である。この合間の期間には三名の委員から成る執行委員会が設けられ、長官と共に、次の評議員会まで待てない緊急の案件の処理に当たる。スミソニアンの長官は協会の活動の最高責任者であり、評議員会によって任命され、評議員会に対して責任を負っている。長官が協会の活動に関して全般的な指示を与えるのに対して、協会内でそれに次ぐ権限をもつ副長官は、実務の最高責任者として日常的な活動を統括する。(38頁)
■ウィリアム・D・レーヒ提督の原爆批判
「私の見解では、広島と長崎におけるこの野蛮な兵器の使用は、対日戦にとって何ら実質的な助けとはならなかった。私自身は、この兵器を初めて使用したことにより、われわれは暗黒時代の野蛮人と同じ倫理基準を採用したことになると感じている。私は、こんなやり方で戦争するよう…女性や子供を殺すよう…教えられたことはない。」(52頁)
■エノラ・ゲイへの異なる視点
エノラ・ゲイ展をめぐって争いが起こった大きな原因の一つは、この飛行機をまったく異なる目で見る二派が存在したことだった。博物館は一九八七年に、核戦争に対する警告としてエノラ・ゲイを収める国立の神殿を建てたいと望むグループの代表、ガリー・ママートに非難されたことがあったが、他方では、同機を原爆が投下されなかったら失われたはずの命の救い主と見る、ビル・ルーニーの手紙やドン・レールの声明も届いていた。(70頁)
彼ら退役軍人たちは、エノラ・ゲイ号の任務は第二次大戦を終わらせただけでなく、何百万という―アメリカ人のみならず日本人の―命を救いさえした、と信じていた。彼らにとっては、これこそが人々を鼓舞するものとして、博物館の展示の中心に据えて焦点を当てなければならないテーマであった。しかしまた他方には、彼らに劣らず展示に懸念を抱き、一瞬にして八万にものぼる、大半は非戦闘員の住民を殺した飛行機としてエノラ・ゲイ号を見る人々もいた。こうした人々にとっては、展示の中心テーマとは、核兵器はふたたび使用されてはならないということでなければならなかった。(146頁)
■大学の歴史学者 vs 軍の戦史官
エノラ・ゲイ展が具体化するにつれて分かったのは、この分野を専門とする歴史学者がはっきりと二つの派―大学に所属する歴史学者と軍所属の戦史官―に分かれていることであった。私の知るかぎり、二派は軍事史をまったく異なる視点でとらえており、意見が一致することはほとんどない。大学の歴史学者は軍事史を社会面と外交面から見ようとするし、軍の戦史官は兵站、戦略、戦術以外のことには目を向けようとしない。軍の戦史官は大学の歴史学者が打ち出す見解には政治的動機があると見る傾向があり、他方、大学の研究者たちは軍の人間には幅広い視野が欠けていると感じていた。(70〜71頁)
■ベンジャミン・A・ニックス(元B29機長)による異論
「今日、エノラ・ゲイ号を怪物の象徴、核のホロコーストの具現、さらには冷酷な加害者が無力な民衆に加えた残忍で不当で道義に反する攻撃の具体的証拠とみなす人々がいる。しかし、空の戦いを担った第二〇航空軍の隊員たちの心の中に、エノラ・ゲイ号は平和の象徴として―戦争の象徴としてではなく―大切に納められている。エノラ・ゲイ号は、もしこの機がなかったら、多くの人々が家族や愛する者たちのもとに二度と帰らなかったであろうことを思い出させてくれるのだ。あの飛行機はわが国民に、局地的には不幸な過ちはあったものの、強国間の世界的規模の平和が保たれてきたのは、力によってであったことを思い出させるものとなっている。」(79頁)
■ハーウィットの回想
「退役軍人の栄光を祝う記念日があるのは当然、というのが、館長の私を含めた館員全員の気持ちだった。疑いもなく、このとてつもなく高価についた長期戦が終わってからちょうど五〇年経った時点で、それを祝う催しが全国各地で行なわれることは当然だった。しかしそのことは、あらゆる団体は例外なく型どおりに振るまわなければならないことを意味したのであろうか。」(110頁)
「われわれはわが国の軍人たちの記憶を尊重するにやぶさかではない、それ自体疑問の余地はなかった。だが、われわれの主たる目的はその時代の歴史を提示することだった。」(111頁)
■W・バー・ベネットJr.(B29偵察撮影員)の異論
「往復書簡、貴館発行の雑誌類に発表されたメッセージ、新聞発表、インタヴューなどから察するところ、戦略爆撃はコストおよび死傷者数が大きすぎて効果が疑わしいとするスミソニアンの考えを来館者に提示する上で、エノラ・ゲイが展示の呼び物になるものと思われます。そうなれば、B29の旧搭乗員たちには呪いです。日本とのあの戦争が突然終わりを迎えたのは、あの爆弾を運搬するためB29爆撃機を利用できたからです。爆弾が実現したのは、わが国が特別のチームを編成して史上初めて制御核連鎖反応を引き起こし、核分裂物質の製法を発明して、核爆弾の製造方法を発見したからであります。…それが成功した結果、日本は衝撃を受けて降伏し、何百万もの生命が救われ、そしておそらくは日本国の全滅が回避されたのです。」(112頁)
「一九四五年に起きたことを今日の道徳基準で判定するのは、正当なことでしょうか。」(117〜118頁)
「戦争を一日でも長びかせることが、道徳的でしょうか。いま当時を振り返ってヒロシマ・ナガサキへの原爆投下は不必要だったと論ずることこそ、詭弁の最たるものではないでしょうか。」(118頁)
「いまこの国のいわゆる「知識人」たちによって、とんでもない運動が進められています。アメリカがなし遂げた偉業をすべて笑い物にしようというのです。スミソニアンが計画している展示について当事者が木で鼻をくくったような説明しかしないのも、エノラ・ゲイを同じ愚弄の対象にするつもりであることを暗示しています。もしそうなら、私は同機がスミソニアンの手で展示されないほうがましだと思います。」(118〜119頁)
■ドナルド・C・レール(元B29機長)の異論
「エノラ・ゲイは戦争を「一夜にして」終わらせたという事実の象徴であり、日本の各都市への焼夷弾爆撃で戦争を終わらせることができるであろうというルメイの主張を骨抜きにした航空機であることを、改めて貴下に申し上げることが必要でしょうか。実際、焼夷弾爆撃で戦争を終わらせることもできたでしょう。ただし終戦がいつになるかは誰にも分からず、その間にも日本侵攻計画は進行していました。原爆を使うというトルーマン大統領の勇気ある決断により、その論争から「いつ」という言葉が取り除かれ、代わりに「いま」という言葉の使用が始まったのです。戦争が即時終結したおかげで、日本侵攻を行なった場合失われたはずの連合軍と日本側双方の人命数百万が救われたわけですが、おそらくそれと同様に重要だったのは、対日和平交渉に加わりたがったロシア人の企みが阻止され、日本には「ベルリンの壁」ができなかったという事実です。」(原文傍点)(120〜121頁)
■アルフレッド・A・イーの手紙(原爆は日本にとって恩恵となったか)
「フクシマ氏は日中戦争から第二次大戦までずっと軍にいた人ですが、原子爆弾はほとんど突如として戦争を終わらせたことで日本人に唯一最大の利益をもたらしたと力説しました。氏の意見では、この優れた兵器があればこそ、日本人を心理的に完全に圧倒できたのであり、もしそれがなければ日本人は決して降伏せず、最後の一人になるまで戦い続けただろうということです。同氏は、日本は何百万という膨大な数の民間人と戦闘員を失ったであろうが、それでもなお、自分たちの神聖なる国土を占領する敵の軍隊をことごとく駆逐するという任務を容赦なく続行したであろうと考えていました。アメリカは何百万という人命を失ったことでしょう。フクシマ氏の話を聞いて私は、日本人の多くが原爆の投下を正当であったと見ているだけではなく、戦争を否定し産業に向かわせる方向にすっかり日本人の心理を変えることで、日本国を救った唯一最大の要因であったと考えてもいることを完全に納得した次第です。この結果、日本人は精神的ならびに物理的エネルギーのすべてを日本復興に向けて注ぎ込むことが可能となり、工業施設を動かし世界貿易に加わることとなったのです。フクシマ氏によれば、この新しい方向が日本の経済的成功の基礎となったことは明らかであり、自分たちがこの方向を取ったのはよかったといつまでも感謝する気持ちだといいます。」(129頁)
⇒ハーウィットの反論
「私自身は、このようなことを唱える日本人には一人としてお目にかかったことはないし、こうした考え方が日本で広く受け入れられているとも思っていない。」(130頁)
■エノラ・ゲイ修復・展示委員会の嘆願書の文面
「われわれ下記署名者は、スミソニアン協会国立航空宇宙博物館に対し、エノラ・ゲイ号を完全に修復するとともに、これを愛国的に展示するよう請願するものである。これによって見学者に、日本侵攻を行なうことなく、またさらなる侵攻に伴う死傷者をもたらすことなく第二次大戦を終結させた合衆国ならびにエノラ・ゲイ号の偉大な成果への誇りを与えられるであろう。もしスミソニアンにおいてエノラ・ゲイ号の誇り高く愛国的な展示の実施が不可能であるなら、それが可能な博物館に同機を移譲するよう謹んで要請するものである。返送先 エノラ・ゲイ修復・展示委員会(米国イリノイ州ノースブルック、テクニー市一九〇二番、W・B・ベネット気付)」(132頁)
■マーティラ・アンド・キリー社による世論調査(1991年12月)
「ご存知のように、今年の十二月は太平洋における日米の戦争が始まってから五〇周年になります。…米国の原子爆弾が広島と長崎に投下されたのは、戦争を終わらせる正当な手段だったと思いますか、それとも大量殺戮の不当な行為だったと思いますか?」(153頁)
「日本では、質問された人の二九パーセントが原爆投下は戦争を終わらせるための正当な手段だったと答え、それに対して米国で同じ回答をしたのは六三パーセントだった。日本人の六四パーセントは不当な大量殺戮行為だと答えたが、同じ意見のアメリカ人は二九パーセントしかいなかった。分からないと答えた人は、両国とも七〜八パーセントだった。」(153頁)
■New York Times、CBSニューズ、TBS放送による調査
「日本人は真珠湾攻撃について謝罪すべきですか?」
「「イエス」と答えたのは、アメリカ人が四〇パーセント、日本人が五五パーセントだった。米国は原爆投下を謝罪すべきかとの問いに、そう思うと答えたアメリカ人はわずかに一六パーセントで、一方、謝罪すべきだと答えた日本人は七三パーセントだった。日本人の八三パーセントが原爆投下は道義的に間違っていたと感じていた。」(153頁)
■エドワード・T・リネンソール(Edward T. Linenthal)
彼(エドワード・T・リネンソール)は共同体や国家が聖地と聖なる出来事、とりわけ戦争と戦場を記念する方法を研究していた。(241頁)
■退役軍人らの怒り
戦後の冷戦と軍拡競争の時代について、とかく退役軍人たちは二つの異なる線で論じようとする。一つは、これは別の問題だというものである。関係ないものをごっちゃにするな。そんなことをするのは、わが国の男たちが勝ち取った栄光ある勝利にケチをつけるものであり、トルーマン大統領の道義性に疑問を投げかけようとするものだ。博物館は、恐るべき戦争を終結させたものとして原子爆弾を展示するだけでよいのだ。以上終わり!この考え方の難点は、多くの来館者たちが心に抱いている疑問をはぐらかしていることである。(256頁)
博物館が採ろうとしたのは、意見や論評を加えるのではなく、核兵器がもたらした問題を単に提示するという途だった。退役軍人たちは、こうした姿勢を「政治的正しさ(political correctness)」をふりかざす「修正主義」であると罵り、ポール・ティベッツが公開の場で述べたように、一九四五年当時のものの考え方でエノラ・ゲイを展示しろとわれわれに要求することになるのである。(256〜257頁)
■当時の文脈に位置づけて論じるべき、という退役軍人たちの非難に対して
まさにこれが、われわれのしようとしたことなのだ。そのためにこそわれわれは、まさに一九四五年にヘンリー・スティムソン陸軍長官が捉えていたとおりの仕方で、また長官がトルーマン大統領に初めてこの問題の説明をした際に提示したとおりの仕方で、エノラ・ゲイの任務を描こうとしたのだ。にもかかわらず、これは修正主義であるというレッテルを貼られ、時代の文脈の中に位置づけるものではないとされたのである。
こうした不当な非難が浴びせられるという悲劇をもたらした原因は、スティムソンの雄弁な報告書が極秘にされ、一九七三年五月一四日に解禁されるまで二八年間隠されてきたことだった。報告書が秘密にされ、その後もごくわずかな歴史家を除くすべての人々から無視されてきた結果、退役軍人たちの間に、当時のトルーマンとすべての高官たちの第一の関心事はただ一つ、アメリカの若者たちの命を救い、彼らを家に帰すことだけだったという神話を生み出したのである。(257頁)
■日米双方の人種偏見
原子爆弾の使用が決定された背後に、人種偏見が何らかの形でその動機として働いていたことを示す証拠はないが、ジョン・ダワーの『容赦なき戦い』(邦題『人種偏見』)が説得力をもって論じたように、全体的に見て太平洋戦争は人種偏見による恐怖の泥沼の中で戦われたのであった。日本兵が捕虜に対して行なったような残虐行為やアメリカ兵の死体を切り刻むといった行為は、はたして他の戦場でも起こりえたことだろうか。『ライフ』誌には日本兵の頭蓋骨─ボーイフレンドが太平洋から送ってきた戦利品─を机に飾っている若い女性の写真が掲載されていたが、他のどこでこんな写真を見ることができるだろうか。太平洋で戦った経験のあるエドウィン・ビアスも展示諮問委員会の席で話してくれたが、太平洋で彼が所属した部隊の一等軍曹が持っていた時計の鎖は、日本兵たちの死体の口から抜き取った金歯で作ったものだという。太平洋戦を戦った両陣営が互いに相手に対して抱いた恐怖は、アメリカ兵がヨーロッパ戦線でドイツ兵に対して抱いた恐怖よりもはるかに大きかったのである。(266頁)
■マイク・ニューフェルドによる報告
「こうした研究から引き出せる最も重要な結論の一つは、トルーマンが警告なしに原爆を使用する決定を下したことを正当化する議論の余地は依然としてあるにしても、その正当化のためにわが国で伝統的に用いられてきた根拠はもはや通用しないということです。その正当化の根拠というのは、ほとんど宗教的ともいうべき情熱をもって果てしなく繰り返されてきたものですが、トルーマンには(a)警告なしに原爆を投下するか、あるいは(b)日本本土に侵攻するかの二つの選択肢しかなかったという主張です。(b)の本土上陸を行なった場合、二五万人、一〇〇万人、あるいは数百万人のアメリカ人または日本人、あるいはその両方の命が犠牲になったとされていますが、どの数字をとるかは説によって異なります。こうした説明が通らない理由としては、少なくとも次の四つがあります。
1 死傷者数。われわれは軍参謀長たちが死傷者数を一度もトルーマンに提示しなかったことを事実として知っている。(ここでニューフェルドは軍部によるいくつかの数値を列挙しているが、それはジョン・コレルの記事で採用されている数字だった。)
いずれにしろ、アメリカ兵の戦死者数五〇万人は、その前提が誤りである。米軍には日本全土を攻略しようとする計画はなく、日本の南部にあたる九州および東京周辺の関東平野の主要二地域のみを占領する計画であった。「オリンピック」(九州上陸作戦)だけでは不十分としても、この二つの地域を占領すれば日本を降伏に追い込むには十分だというのが大勢の見解であった。
2 選択肢。トルーマンは無警告の原爆投下以外に、後の見方で推測されるような他の選択肢を明示されたことは一度もなかった。
しかしながら、選択肢はトルーマンの前で、ないしは顧問の間で論議されていた。(ここでニューフェルドは論議された選択肢を詳細に記している─天皇制存続の保証、原爆の誇示、ソ連参戦による動揺、あるいは海上封鎖や通常爆撃の効果を待つこと、など。)
3 戦争の速やかな終結。時を経て明らかになったことや日本政府の和平工作が知られるようになったことで、いまでは日本が一九四五年夏ないし秋に戦争を中止した確率は相当高かったと考えられている。ソ連参戦ないし天皇制存続の保証、あるいはその両方の条件がそろえば十分だったであろう。日本の指導層、特に軍部の主戦論者たちは、現実的な降伏の申し出をしなかった以上、ヒロシマ・ナガサキで起きたことに多大な責任を負っているが、それでも彼らは和平を求める意志のあることを密かに伝えようとはしていた。(日本はモスクワの駐ソ大使に秘密電報を打電し、米国はそれを傍受していた。日本はソ連の仲介で和平交渉が行なわれることを期待していた。)
4 事態の勢いとソ連という要因。従来の正当化においてはまた、トルーマンの決定を促した要因を無視して、問題をひどく単純化していた(たとえばこうである― 一九四五年の状況下でトルーマンは他にどうしようもなかった)。すなわちマンハッタン計画、およびアメリカの原爆使用が米ソ関係にもたらす可能性のある思いがけない効果、といった説明である。歴史学者の間では、トルーマンの決定の主要因は死傷者数と戦争の早期終結であったという点で見解が一致しているが、それ以外の要因も決定に重要な影響を与えていたことは、残された証拠が明白に示している。
(336〜337頁)
■過去に学べ―非難するためにではなく、変化し続ける世界にどう対処していくのが最善であるかを知るために―
ティベッツ将軍の「止め!」は、戦時においてはいまなお最善の策であろう。しかし、長期的にものを考える場合にはこれでは駄目なのだ。国家はその歴史から学ばねばならない。とりわけそれぞれの時代の最も重要で困難な決断にこそ―非難するためにではなく、変化し続ける世界にどう対処していくのが最善であるかを知るために―われわれは学ばなければならないのだ。そのためには、過去の指導者の経験をよく調べる必要がある。過去の指導者が下した賢明な判断と、彼らが犯した過失のどちらをも無視するわけにはいかない。両方ともが重要であり、理解されなければならない。(348頁)
■反対勢力の意見を取り入れるべきか否か(コーンとハーウィットの認識の違い)
歴史学者や平和運動家をはじめとする批評者からは、米国在郷軍人会との協議を懸念する声が上がった。このとき表明された彼らの見解は、のちに、高く評価される学者であり空軍戦史官としてはリチャード・ハリオンの前任者でもあるリチャード・H・コーン博士の意見に反映された。コーンは長年にわたり、航空宇宙博物館調査研究・コレクション管理諮問委員会の議長を務めた人物で、われわれ館員の多くはいまでも彼を良き友人と思っている。現在はノース・カロライナ大学の歴史学教授であるコーンは、軍所属の戦史官と学術機関の歴史学者の両方の世界で完全に受け入れられていた。したがって、コーンの批評は真剣に受け止める必要があった。
コーンは展示台本第一稿の子細な分析結果を、展示中止から数ヵ月後に発表した。そのなかで、彼は展示台本の重大な欠陥をいくつか指摘しているが、以下のような博物館に対する叱責もあった。
「……政治的問題を持ち込みたがるばかりで、学識も、博物館に関する専門知識も、バランスのとれた見方も持ち合わせない外部団体を相手に、展示内容について交渉を始めてしまった。博物館は最高の助言をできるかぎり集め、それに従って展示内容を相談し、熟考し、反省し、修正していくものだが、黙従と引き換えに過去についての一解釈を買い取るとは、特に危険な行為である。アメリカ史における労働運動をテーマにした展示について米国労働総同盟産別会議(AFL−CIO)と交渉したり、医療をテーマにした展示について米国医師会(AMA)と交渉したりすれば、事実や解釈について拒否権を振りまわす関係団体に展示を人質にとられる恐れがある。」
私はコーンのようには考えない。博物館のわれわれはみな、展示台本をめぐる最初の展示諮問委員会で同じ側に座った人々からの、好意的な批評に応えるほうがいいに決まっていた。しかし、諮問委員会から実質的な批評が得られなかった場合、われわれは展示に反対する団体の声だからというだけで、もっともな疑念に耳をふさいでいいものであろうか。同僚の助言に応えてではなく、圧力を受けて理にかなった変更を加えるのは、間違ったことなのであろうか。コーンのたとえによれば、労働運動に関する展示をするとき、AFL−CIOからの助言はただちに拒否すべきなのであろうか。米国医師会はアメリカの医療について何一つ有益な助言ができないのであろうか。アカデミックな研究者というのは、「学識も、博物館に関する専門知識も、バランスのとれた見方も持ち合わせない」人々からの助言はすべて一蹴するほどのエリート主義なのであろうか。私は断じてそうは思わない。(418〜419頁)
■退役軍人たちとは全く正反対の立場からの原爆展批判
「スミソニアン協会は、米国在郷軍人会をはじめとする退役軍人団体からの圧力に屈して、日本への原爆投下を扱おうとする展示の信頼度を危うくしている。退役軍人団体のキャンペーンの強い圧力を受けて、博物館はすでに展示台本の広範囲にわたる変更を行ない、第二次大戦前および戦中における日本軍の残虐行為の記述を追加するため展示規模を二倍にした。これらの変更によって、歴史上比べるもののない出来事である原爆投下が、日本の侵略に対する正当防衛として提示されることとなっている。スミソニアンが発表したさらなる変更は、この視点を強化するばかりで、米国の軍事行動が引き起こした広島と長崎の壊滅にこじつけの解釈をほどこすものである。」(キリスト教平和団体「友和会」(Fellowship of Reconciliation)の事務局長であるジョー・ベッカー、428頁)
「核兵器の影響に関する公教育と、核拡散ならびに核戦争の防止をめざす組織の代表として、われわれは、航空宇宙博物館がエノラ・ゲイならびに広島と長崎への原爆投下をテーマとする展示を、来年開催すると決定されたことに称賛の言葉を申し上げます。…しかしながら新聞で報道されておりますような、原爆が広島と長崎の人々に与えた影響、および戦後の核軍備競争を論じる展示セクションの削除を決定された点には、深く憂慮しております。われわれが考えますに、原爆投下が人類にどのような影響を与えたかという問題を故意に省略すれば、核兵器使用が恐ろしい代償を伴ったというわが国の集団的記憶が失われ、危険な事態を招きます。このような記憶の喪失は、あのようなことが二度と起きないようにしようというわが国の決意を弱めるだけでしょう。さらに、戦後の核軍備競争に関する議論、および核兵器の設計、製造、実験が原爆に関係した退役軍人や核兵器工場の労働者、そして「風下の住民」の健康に与えた影響に関する議論を一つでも展示から削除することは、ある意味でヒロシマとナガサキの犠牲者ともいえる、数十万人の兵士と市民の記憶を裏切ることです。」(「社会的責任を果す医師団」(Physicians for Social Responsibility)のロバート・K・ミューシル、428〜429頁)
「アメリカ歴史家協会は、第二次世界大戦および原爆投下をテーマとするため論争の的にならざるをえない展示の企画を進めているスミソニアン協会を、罰しようとする連邦議会議員の威嚇に対して非難を決議する。アメリカ歴史家協会はさらに、博物館展示を生み出すための専門的手続きおよび規準とは別の理由によって、歴史的文書が削除され、歴史解釈が修正されたことに遺憾の意を表明する。」(1994年10月22日にアメリカ歴史家協会(Organization of American Historians)理事会で採択された決議文、431頁)
歴史学者や平和運動家たちは、何の助けにもなってくれなかったと私は感じていた。彼らは、退役軍人団体の圧力に屈したとしてわれわれを批判するばかりで、われわれのしたことも、なぜそれをしたのかも知ろうとはしなかった。彼らはまた、展示を批判する人々に対抗する自分たちの見解を、メディアを通じて、あるいは議会に対して広く知らせようともしなかった。このように彼らは批判するだけで、政治的行動をとろうとはしなかったために、空軍協会をはじめとする展示を非難する人々の声を勢いづかせる結果となったのである。空軍協会は、自分たちだけでなく歴史学者たちでさえ展示に不満を抱いている以上、スミソニアンの手から展示を取り上げるべきだとしばしば主張するようになっていった。(435頁)
■ニューフェルド報告に対する在郷軍人会の反発
米国在郷軍人会は、トルーマン大統領には本土侵攻に代わる方策があったとする指摘に異を唱えた。通常爆撃の続行、効果的な海上封鎖の継続、そしてソ連の参戦などによって日本は降伏していただろうという記述は、在郷軍人会の論拠を骨抜きにするものであり、彼らはそれに猛烈に反発した。侵攻作戦で予想される死傷率として大統領顧問たちがトルーマンに示した比較的小さな数値―それでもまだ相当なものであったが―が引用されていたこともまた、米国在郷軍人会の会員たちが激怒した理由だった。その数字が、広島で死んだ一〇万人という数よりも格段に低かったためである。原爆が実際に人命を救ったと展示で認めないかぎり、米国在郷軍人会は満足しなかったであろう。彼らは、トルーマンの「勇気ある」決定によって、広島・長崎で失われたよりもはるかに多くの命が―はるかに多くの日本人の命さえ―救われたと主張した。たしかにそれはありうることだろうが、ただしそれは、トルーマンには侵攻作戦以外に原爆に代わる方策がなかったとしての話である。他に策がなかったとはとうてい考えられないことだ。そして、五〇万から一〇〇万ものアメリカ人死傷者を予測していたとしたら、トルーマンが平気で日本侵攻を命じていたとは思われない。他のいくつかの選択肢を検討した可能性のほうが大きいのである。(436〜437頁)
■1995年3月30日、アメリカ歴史家協会がワシントンDCのホテルで公開討論会を開催。マーティン・シャーウィン(ダートマス大学歴史学教授)による開会スピーチ(NHK取材班『アメリカの中の原爆論争』ダイヤモンド社、1996年、112〜116頁)
「一九九五年一月二六日付の『ニューヨーク・タイムズ』に、私の興味を引く二つの記事が掲載されていた。一つは「共産主義の鏡が砕け、ふたたび目を覚ますポーランド」と見出しのついた記事で、ポーランドの歴史家たちが新しく見つけた自由のなかで、ソビエト時代を反映する歪んだ姿から解き放たれた独自の国の歴史を検討し、書き始めている、という内容のものである。もう一つは「八〇人の政治家が航空博物館館長の追放を要求」という見出しで始まる記事であり、エノラ・ゲイとマーティン・ハーウィットの写真が掲載されている。これら二つの記事は、アメリカにおいて過去について語る自由が、今どうなっているかということと、冷戦後の時代がこれまで鉄のカーテンに覆われていた国に、どのような自由を与えたかということを、不気味なコントラストのもとに示唆しているように思う。エノラ・ゲイの展示計画は日本びいきであるとか、反アメリカ的であるとか、また政治的な曲解であるとか、さらに修正主義であるとか、いろいろな理由で非難された。私の考えでは、エノラ・ゲイをめぐるこの対立は歴史の解釈についての論争ではなく、「記憶と歴史の間の戦い、あるいは記念的なものと歴史的なものの間の戦い」である。もちろん、これは私たちの政治的文化の中の一つの騒動、あるいは一つの文化的な戦いであり、それははっきりと目に見えている。ただ明確に認識されていない視点として、私は、この出来事に象徴されるアメリカン・デモクラシーや表現の自由への危険について指摘しておきたい。これは、アメリカにおける表現の自由に価値を見出す人であれば、十分に注意を払うべきことである。退役軍人たちが歴史として覚えている記憶と実際の歴史の間の争いは、お互いに検証しながら話しあうという方法ではなく、議会の介入という政治的な力によって決着がつけられた。そして、この結果、アメリカの議会は一方的な立場から歴史の紹介を許し、「承認された歴史」というものを強調した。航空宇宙博物館に対する攻撃の中心となった議会のリーダーたちは、非愛国的、左翼的、日本びいき、反アメリカ的といったマッカーシー時代のスローガンを引っ張り出して、展示を目指して作業にあたっていた担当者たちに汚名を着せようとしたのである。この粗暴なネオ・マッカーシズムでは、「ソ連人」が「日本人」に置き換えられ、「共産主義」は「第二次世界大戦の終結に関する出来事への修正的な姿勢」に置き換えられた。今ヒロシマに対する批判は、国家への忠誠をテストするための右翼のリトマス紙として公認されているのである。注意しなければならないのは、これが当事者への単なる批判にとどまらず、印刷物、テレビなどすべてのメディアに対する攻撃にもなっていることである。公共放送、国立芸術基金(The National Endowment for the Arts)、国立慈善基金(The National Endowment of the Humanities)、『標準・アメリカ合衆国史』(National Standards for U.S. History)なども攻撃の対象とされた。対決する者も、印刷する者もいないまま、とぐろを巻くニシキヘビのように、「言論の自由」を取り囲んでしまった。これは深刻な問題であり、歴史家はもちろん、この社会の中で表現の自由に従事するすべての人々が正面から受け止め、考えなければならない問題である。歴史学者のみなさんは、批判者たちを怒らせたのが、展示計画案に書かれた次のような文章であると聞いて驚くことだろう。「今日に至るまで、戦争を早く終わらせるために日本にこの武器を投下することが必要だったかどうかという論争が続けられてきた」この事実は、一般的によく知られ、否定することのできない事実であるにもかかわらず、彼らはこの文章を計画案から削除することを要求したのである。全米退役軍人協会の古参者が、日本への原爆投下を批判することはホロコーストの残虐さを否定することと同じだ、と言ったという話を私は聞いたことがあるが、何というばかげた話だろう。私たちは、ヒロシマ以前にもさまざまな論争があったことを忘れてはならない。原爆が投下された後、この論争はアメリカ国内に広がり、とくにアメリカの人々が初めて原爆の影響について知った一九四五年から四七年の間に高まった。それ以来、歴史学者たちの間でどれだけの論争が続けられてきたか、みなさんはよくご存知だと思う。原爆投下の「決断」は、論議や批判を生む余地のないものだったとする主張は、私たちすべてにとってとても受け入れられないものである。私たちは今、最も深刻な問題に直面していると私は思っている。これは単に歴史学者たちの問題でも、博物館の責任者の問題でもない。あるいはエノラ・ゲイだけの問題でもない。私たちの歴史が自由に、オープンに、公に、知的な方法で議論されうるかどうかという問題なのである。現在私たちが取り組むべき課題は、そのことを防ぐための努力であるように思えてならない。」
【コメント】
国立航空宇宙博物館の元館長、マーティン・ハーウィットによる本書は、20世紀に頂点を迎え、そして21世紀に入ってもその勢いを弱めようとしない偏狭なナショナリズム、または「国民の物語」が、具体的な形で論争を引き起こした事例を生々しく物語っている。エノラ・ゲイ展示論争と時を同じくして、日本では歴史教科書論争が勃発した。従来の歴史教科書は「自虐的」であり、これではそれを使って歴史を学ぶ子供たちが自分の国に誇りを持つことはできないとして、教科書記述の大幅な改訂を要求する運動が一部の保守派知識人によって展開された。この二つの論争に共通する点は、自国民から多数の死傷者を出した過去の戦争の記憶をめぐって、その記憶を「国民の物語」、すなわちアメリカ人としてのまたは日本人としての集団記憶として語ることへの執着が、そう簡単には消滅しないという厳然たる事実を提示したことである。
この二つの論争における大きな違いは、日本においては、「日本人としての誇り」を強調したグループの主張が歴史の歪曲、歴史修正主義として猛烈な反発を招いたのに対し、アメリカのエノラ・ゲイ展示論争においては、記念的性格とは異なる、学術的で分析的な展示を企画し、原爆投下の道義性や被害の実態などにも言及しようとした博物館スタッフに対し、退役軍人らが「政治的正しさ(political correctness)」という看板によって事実を捻じ曲げた修正主義という批判を浴びせたことである。日米間では、明らかに多数派の言説が正反対の特徴を示しているのである。つまり、アメリカでは愛国的言説が素朴に受け容れられる素地が大きいということである。そのことは2001年9月11日の同時多発テロ以後のアメリカにおける言説の保守化やハリウッド映画に頻繁に現れる、愛国心の肯定的な描写からも明らかである。
国際交流の美名の下に全く異なる歴史観を持つ二つの国が協力を試みる時、各々の「国民の物語」が我々の前に立ちはだかって、陰に陽に論争の火種を持ち込んで来ることに、我々は常に敏感でいなくてはならないだろう。「国民の誇り」に執着する自慰的な言説が非生産的であることは言を俟たないとしても、それを克服することが言うほど易しいものではないことを、本書ははっきりと示している。20世紀の歴史に残る名著であると思う。
【補遺】
この本は留学する前に読んだものである。エノラ・ゲイ号展示論争にショックを受け、また本書でその詳細を知ってさらに衝撃を受け、日米間の「戦争の記憶をめぐる争い」をもっと深く学びたいとこの時感じたのだった。藤原帰一の本を読んでいたことも大きかっただろう。
95年に予定されていたこの展示は、実はのちに我が学校のキャンパスで(規模は縮小されたものだったが)行われている。その時も退役軍人らから猛反発が起こったそうだが、元来リベラルな教授が多いうちの学校の校風から、またこのテーマについて長いこと研究を続けている有名な教授が中心となっていたため、予定どおり展示は行われた。その時にアメリカにいなかったのが残念だが、しかしそのような事件およびアメリカ政治の一側面を身近に感じられる場に来て本当によかったと思う。思えば、この本がこの地に自分を連れてきたのかも知れない。
まとめで引用した退役軍人らの発言や文章を読んで、まずはその絶望的な認識のギャップに思いを致すことが大切だと思う。その一方で、ハーウィットのように「闘う知識人」が大勢存在していることも認識しなくてはならない。政治力としては到底退役軍人らに及ばずとも、彼らの書いたものや発言は、アメリカ国民の戦争に対する認識に大きな影響を及ぼし続けている。
容易に政治化(politicize)されやすい戦争の記憶の問題を論じることがいかに難しいかが本書からわかるだろう。一方の善悪の基準など他方には全く通用しない現実をまずはしっかり認識すべきだろう。本書を読まずして軽々しく戦争の善悪を論じてほしくはない。繰り返しになるけど、本書は20世紀の歴史に残る貴重な史料である。