M・スコット・ペック『平気でうそをつく人たち』書評
- 作者: M.スコットペック,M.Scott Peck,森英明
- 出版社/メーカー: 草思社
- 発売日: 1996/12
- メディア: 単行本
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軽いタッチのタイトルとは裏腹に、最初から最後まで重苦しい雰囲気の漂った本である。本屋で客の目をひくためのタイトルなのだろうが、実際には「ある精神科医の臨床日誌――私が出会ったうそつきたち」くらいの内容である。
著者が目指しているのは「邪悪性を精神病の一形態として規定」(92頁)することで、人間の悪というものを科学的究明の対象とすべきであると提言している。(177頁)しかし、病気に対して的確な名前を与えることの威力についての著者の議論(168頁)を逆手に取れば、歴史上の人物や政治の世界からアニメに至るまで、ここまで一般レベルで好き勝手に使われる「邪悪(evil)」という広い解釈を許す言葉を使う以上、「邪悪性」というラベルは科学的究明の前に大きくたちはだかると思う。邪悪性という「病気」が高血圧症と同じ客観的な事実だといくら論じても、そうした主張だけで「患者」に治療を受けさせることは無理だろう。
本書の筆者が用いている「精神分析療法」についてだが、先日読んだ『他人がこわい』の中で、認知行動療法と精神分析療法の対立が次のようにわかりやすく説明されていた。これを読むと、本書の議論の中にもまだ曖昧なところが多くあって、鵜呑みにするわけにはいかないように思われてくる。より広い視野から著者の主張を判断すべきである。
認知行動療法とは、その人のものの見方(認知)と行動様式を変えるための治療法である。<社会不安>を含む多くの心理的な障害は、非合理的な行動や考え方が身について、どうしてもやめられなくなってしまうことを原因としている。だからこそ、認知行動療法は<社会不安>の改善に広く用いられていて、さまざまな研究によって有効性も証明されているのだ。いっぽう、精神分析療法で重視されている「その障害が起きた理由の解明」は、認知行動療法では二の次とされている。認知行動療法の理念においては、「たとえ理由を探し当てたところでその障害が改善されるとは限らない」とされているためだ。一部の医師たちの間で言われているような、「理由がわからないままだと、治療終了後にリバウンドが現れたり、別の障害が生じたりする」という考え方も、今のところいかなる研究によっても正当性は証明されていない。つまり、<社会不安>を改善するには、その人の幼少時代の記憶や深層心理を探っていくより、もっと具体的で現実的な部分にはたらきかけるほうがずっと効果的なのである。
だが、この点に関しては、精神分析療法派と認知行動療法派の人たちの間で、これまで長い間意見の対立があったことは事実である。精神分析療法派が、「どうしてそうなったのかがわからないまま症状だけ治しても、ちょっとしたきっかけで再発するに決まっている」と言えば、認知行動療法派は、「それなら、あなたたちは本当に原因を取り除いていると言えるのか?治療の効果の有無を判断する基準さえ定められてないくせに」と反論する。(『他人がこわい』221〜222頁)
第5章のベトナム戦争中に起きた「ソンミ村虐殺事件」についての議論のあとで、著者がたどり着いた結論が「徴兵制の復活」であることには驚いた。社会的・政治的洞察力に欠けたまま、精神分析の視点から社会を論じることの限界であるように思われる。
ただし、本書の終わりのほうで「科学的権威による偽装の危険性」(315頁)と「科学の乱用の危険性」(318頁)について著者が警鐘を鳴らしている点については、自分も全面的に同意できるものだった。それは以下のような箇所に表れている。
われわれには、科学者を、知的迷路のなかを導いてくれる「哲人王」として祭りあげるという強い性向がある。
われわれは、知的怠惰から、科学的思考というものが趣味や好みと同様にそのときの流行に左右されるものだ、ということを忘れ去っている。科学の権威筋が現在口にしている意見は、最新のものというだけであって、けっして最終的、決定的なものではない。われわれ一般大衆は、自分の身の安全のためにも、科学者や科学者の断定することに疑念を抱くべきであり、またそうすべき責任を負っている。(317頁)
科学の乱用がもたらす最も深刻な問題は、科学的真理を装って個人的見解を公言する科学者自身よりも、科学的発見や科学的概念をあやしげな目的に利用する一般大衆――業界、政府、それに情報に乏しい個人――に起因するものである。原爆の製造が可能となったのは科学者たちの研究によってではあるが、その製造を決定したのは政治家であり、これを投下したのは軍人である。科学者の発見したものがどう利用されるかについて、科学者にはいっさい責任がないというわけではない。そうした状況を制する支配権が科学者にはないということである。(318頁)
科学とは、当面のところ最も真理に近いと思われる仮説を構築するプロセスのことであり、それ自体は手段であるので神聖視する性格のものではないのである。