エンゲルハート、リネンソール『戦争と正義』書評

戦争と正義―エノラ・ゲイ展論争から (朝日選書)

戦争と正義―エノラ・ゲイ展論争から (朝日選書)

※本書評は2年前に書かれたものです。

【重要箇所抜粋】

エドワード・T・リネンソール「エノラ・ゲイ展論争の分析」

 しかしながら、文化的に成熟した時期だから、紛糾の危険性がある話もできるのだが、そうでない時期にはむずかしいというのも事実だ。一九八〇年代初期は核を懸念する声の高い時期で、広島と長崎に戒めとなる教訓を得ようとすることも可能だった。例えば、一九八〇年に、オレゴン州選出の共和党上院議員D・C・ハットフィールドは、ワシントンDCの旧上院事務所ビルの円形大広間で広島平和記念資料館の展示品やなまなましい写真の展覧会をする際に力を貸した。ハットフィールドは、原爆投下で広島が破壊されてひと月後に訪れており、「原爆はわたしの命を救ってくれた。……しかし、あの見境のない荒廃を見て、世界がいまや、あの一発の原爆の百万倍もの核爆発力を持っていることを考えると、おそらく、この展覧会でわれわれはこの問題について真剣に考えることになるだろう」と、回顧している。この時期には、広島と長崎の恐怖を思い出すことは、時の反核熱の中で重大な役割をはたした。当時のアメリカでは、これを神に選ばれた「物語」と見る人たちがふえていた。

 しかし、一九九〇年代の文化的風潮は、核兵器に関するこうしたより暗い物語をはるかに受け入れがたいものにした。国立航空宇宙博物館という「聖堂」では、とりわけそうだ。ソ連崩壊の結果、地球規模の核戦争の恐れが薄らぐと、別の種類の恐れ、すなわちアメリカの実像と強大な敵のいない世界での自国の役割に関する恐れが表面化した。スミソニアンの展覧会にかかわった学芸員歴史学者にむかっては、とまどうようないやみと、しばしばそれにともなう罵詈雑言が発せられたが、その背後には、エノラ・ゲイの任務の性質や、日本の民間人の被害者をどう描くか、日本本土上陸作戦計画でのアメリカ側の戦闘犠牲者数はどういう数字なら同意できるか、といったことについての論争では説明できない不安があった。(72〜73頁)

 国立航空宇宙博物館からモールを少し行ったところにある合衆国ホロコースト記念博物館の観客には、一九九三年以来まさにその機会(複雑な過去に、覚悟を決めて、進み、対峙できる機会)が与えられている。彼らはそこで、アメリカ人が収容所に出くわして解放したこと、ホロコーストで生き残った多くの人々がアメリカで安住の地を見つけたことを知る。しかし、彼らは、ヨーロッパ在住の数千のユダヤ人がこの国へ合法的に移住することをさまたげたアメリカの反ユダヤ主義者の役人のことも知るのである。一九三九年に、汽船セントルイス号がアメリカの岸辺から追い返されたため、多くの乗客がホロコーストで死ぬという結果をもたらしたことを学ぶ。合衆国ホロコースト記念博物館では、観客は複雑な物語を直視できるだけ成熟しているかどうか、審査される。だが、残念なことに、スミソニアン国立航空宇宙博物館では、戦争の終結と原爆の使用(およびさまざまなその遺産)の物語にふれる、同じような機会は観客に与えられなかったのである。(74頁)


■ジョン・W・ダワー「三つの歴史叙述」

しかし、近年、被害者としての歴史叙述が卓越した地位を失いはじめた。一九七〇年代初期に日本と中華人民共和国の外交関係が回復すると、日本の中国およびアジア諸国に対する残虐行為をジャーナリスティックに、また学問的に論じる気運がうながされた。そして、一九八九年、六十四年の在位のはてに天皇裕仁が死ぬと、日本の戦争責任を議論する最後のタブーがとりのぞかれた。天皇が死ぬまでは、戦争に関する率直な批判的論議はどうしても、日本の戦争犯罪に関する天皇自身の道義的・政治的責任に疑義を唱えることになるから、不敬的な罪に陥る危険性があったからだ。天皇の死は、過去への批判行為への扉を開いた。(79頁)

戦争責任問題に取り組むことがこれほどおくれたことについては、当然のことながら日本人自身に第一の責任がある。とはいえ、中国との国交回復がおくれたことと、天皇裕仁玉座にいつづけたことに結びつくタブーには、戦後日本において言論と行動を形づくる上でアメリカがはたした、微妙で逆説的な役割があったのである。アメリカは、日本のことを「歴史健忘症」だといいたがるが、その「歴史健忘症」は数十年間、日本とアジアにおけるアメリカ政府の目的と合致していたのであり、このような指摘は通説とはちがうかもしれないが、けっして法外な主張ではないのである。(79〜80頁)

冷戦の只中にあっては、アメリカは日本の再軍備を助長するだけでなく、同時に共産主義によらない「近代化」の立派な見本として、日本を売り込んだ。日本の戦争責任をおおい隠すことはアメリカの政策であって、それは単に日本民族固有の忘れっぽさの現れだけではなかったのだ。戦前の日本の軍国主義を控えめにいったり、日本人の残虐行為を浄化したり、広島と長崎の恐怖をふくめて、戦争一般の恐怖を最小限に抑えて論じたりしたのは、日米双方の事情によるものであった。(80頁)

 日本人の八〇パーセントは(政府の意に反して)日本が植民地にした、あるいは侵略したアジアの国々の被害を受けた人々に、政府は適切な補償をしていないと思っているという。これはとても、強烈な歴史健忘症をわずらっている人々の答えとは思えない。

 それとは対照的に、スミソニアン協会のエノラ・ゲイ展の大紛糾が示すように、戦争に対するアメリカ人の記憶には、歴史的な記録からあいまいさや矛盾、道義上複雑なものをすべてとりさって、星条旗でおおってしまおうという強い感情的・イデオロギー的衝動が秘められていることがあらわになった。(83頁)

日本の政治情勢の中では、日本遺族会、すなわち元来は遺族の代表で構成された市民団体が、戦争を公式にどう提示するか、日本の戦争責任にどう取り組むかをめぐる論争において、より効果的な保守派の代弁者として現れた。戦争についての国会の無条件の謝罪を阻止する上ではたした遺族会の感情面での役割と、同様にスミソニアンの国立航空宇宙博物館の批判をよんだエノラ・ゲイ展をさまたげた米国在郷軍人会の役割は、興味深い比較ができる。(ジョン・W・ダワー「三つの歴史叙述」巻末原注11頁、注11)

原爆投下の決断を研究している歴史家たちは、実際の出来事の時間的序列だけでなく、計画上の時間的序列にも細心の注意を払っている。「神様、原子爆弾をありがとう」の論旨は、英雄的な叙述の核心であるが、それは、多くのアメリカ人の生命を救うために、早急に原爆を落とすことが必須だったことを強調している。しかし、この論旨は合衆国最高司令部の、いまでは周知の作戦予定とはつじつまが合っていない。一九四五年十一月以前に日本本土上陸作戦を行う考えはなかったのであり、十一月に南の島、九州への最初の強行上陸作戦が計画されていた。戦略的拠点である東京―横浜地域のある関東平野を中心とする日本本土の大上陸作戦は、一九四六年三月に行われることになっていた。「オリンピック」と「コロネット」というコード・ネームをつけられた極秘事項の戦闘計画の中にあった、こうした予定表は、英雄的な歴史叙述において「事実」がいかに利用されたか、あるいは誤用されたかを示すものとなっている。(92頁)

戦争を早期に終結し、アメリカ人の生命を救うことは明らかに、トルーマン大統領および彼の側近たちにとってたいへんな関心事だったろうし、日本の抵抗が自滅的な獰猛さだったため、敵の本土への侵攻をすることなく戦争を終結する画期的方法を見つけることはよけい緊急を要することになった。からだ一面にタールをぬられて羽毛まぶしにされた[私刑の一種]ように「修正主義者」という汚名を着せられた学芸員や学者もふくめて、皆その点については同意した。同時におもに、閲覧可能となった文書のおかげで、われわれはいまや、やはり日本の都市に対する原爆投下をうながした、官僚的、外交的、政治的、科学的必要性の複雑な相乗作用があったことも詳細に、かつ生き生きとした形で理解しているし、心理的な必要性がひと役買ったこともはっきりしている。けっして、人命を救うことが爆撃を促進させた唯一の理由ではないこともわかってきている。(95頁)

 例えば、マンハッタン計画は、ナチス・ドイツ核兵器を開発するかもしれないという恐れから一九四一年後半に立案されたが、早くも一九四三年には、ドイツがそういう計画に本格的に着手していなかったことをアメリカが知る前に、またドイツの崩壊が明らかになる前に、さらにアメリカがまもなくそうした兵器のテストにかかるという時期より前に、つまり日本本土への断固たる前進命令がまだ先の話の時期に、軍の作戦家がすでに、日本が恐るべき新兵器の標的になることを予期していたということを、われわれはもう知っているのだ。新兵器開発の最初の根本的な理由はまもなく、技術者の必要性と容赦なく事を進める官僚の推進力にとって代わられた。

 われわれはまた、一九四五年のなかばには、アメリカの指導者たちが原爆を、すでに米ソ間に緊張関係を生み出していた、硬直した外交ゲームでソ連に対して使う重要なカード(陸軍長官ヘンリー・L・スティムソンが用いた言葉だ)とみなしていたことを示す第一次資料を多数持っている。「原爆外交」でそういう使い方をすることは、戦争を早く終わらせるために原爆を使うこととまったく矛盾せず、双方ともどちらも必要なことであり、行き着く先は同じである。だが、同時に、そうした一致は、急いで新兵器を使おうという決断がただ単に差し迫った戦争の問題にもとづいていたわけではないことを意味している。(95〜96頁)

たぶん、アメリカが天皇制を保証すれば、原爆を投下する前に日本の軍国主義者に降伏をうながすことができたかもしれない。実のところはわからないが、そうした仮説を真剣に考えることによって、戦争の暴力的な終幕と、重大局面の政策立案一般について、多くのことを知ることができる。筆者の考えでは、妥協して無条件降伏の要求を引き下げることは、多くの理由から実行可能な政策選択ではなかったと思う。それは、アメリカ内でも連合国軍内でも、政治的に不可能だったろう。たぶん、苦渋にあえいでいた日本の指導者たちはそうした交渉の機会をとらえたら、皇位の維持といった漠然とした保証だけでなく、もっとはっきりした説明と「条件」の提示を迫っただろう。さらに、条件つき降伏が合意に達したら、ここでまた、具体的な戦後構想に対する考慮が関与するのだが、敗北し占領されたのちの日本に、アメリカが大規模な改革を強いる力が大幅にそこなわれただろう。妥協を求めず、原爆に頼れば、日本の降伏でアメリカは、確実に戦後の日本において「非軍国主義化と民主主義化」を促進する、事実上独裁的な力を手中にできると考えられたのである。(99頁)


■マイクル・S・シェリー「愛国的文化から愛国正教へ」

博物館の展覧会の敵対者のような自称国旗の擁護者たちは、新しい愛国正教が内向きかつ後ろ向きであり、今世紀なかばの愛国的文化よりもはるかに国内の敵と遠い昔の海外での勝利に対して興味を集中していることをあらわにした。半世紀前の出来事にそれほど強くひかれるということは、それなりに重要なことを示唆している。昔の出来事に頼ることはただ単に、五十周年記念がかもしだす不思議な魔術のせいにはできないからだ。記念行事のそれぞれの瞬間が、固有の力と共鳴を引き起こすものを持っているわけではなく、そのかわりにそのときの状況から多くの意味を引き出すのである。例えば、一九六八年の第一次世界大戦戦勝五十周年で特徴的なのは、アメリカ人の間で大騒ぎが起きなかったことだ。愛国的文化の混乱と反ヴェトナム戦争熱がそれを不可能にしたのだ。愛国正教の擁護者が一九四五年に頼るのは、それ以降には、彼らが利用できるものがほとんどなかったからだ。朝鮮戦争ヴェトナム戦争は、そうした目的には役立たない。愛国者の栄光のいちばん新しい例である湾岸戦争は、ほとんど有用性をもたらさなかった。犠牲の重さが欠けていたし、あまりにも簡単に勝ちすぎたし、結果があいまいすぎた、すなわち、サダム・フセインがあいかわらず、権力の座にあるから、愛国的な記憶を新たに蓄えることができなかったのだ。(131〜132頁)

少なくとも当面、愛国正教が押し進めることは、国内の敵とされるものを打ち破り、アメリカ文化の純粋性という考え方を広めることであって、海外の敵と戦うことではない。その支持者は、愛国的文化を世界に突出させることではなく、博物館にたてまつり葬ること、そして、そういった博物館をつくることに余念がないようだ。彼らにとって、当を得た展覧会というのは過去の記念碑であって、未来への指針ではない。アメリカの軍事力にとっての新たな栄光を期待するどころか、彼らはむしろ、第一次世界大戦以前の失われた帝国の栄光をいとおしげに思い出したり、腹立たしげに弁護したりしていた第二次世界大戦直後のイギリス人に近い。皮肉にも、エノラ・ゲイ論争と「愛国者たち」の部分的なその勝利は、アメリカが軍事的ヘゲモニーをにぎっていた偉大な時代が終わりに近づいていることを示したのだった。(134頁)


■ポール・ボイアー「歴史は誰のものか―人々の記憶、政治、学問としての歴史学

歴史学者はたえず、さまざまな出来事についての広く受け入れられている考えや通説となった解釈に異議を唱えている。それが、歴史学者としての本分である。ふつう、この作業は、一般人の目にふれない学術雑誌や専門家の集まりで展開されている。新しい解釈が濾過されて教科書や教室での授業に現れると、それはやがて、一般国民の歴史の理解を修正するかもしれないが、その変化は概して緩慢なもので、ほとんど気づかれはしない。(158頁)

しかし、ときどき、学者の歴史への取り組み方と、一般人のなかば神話的な過去観の間に存在する乖離がくっきりとあらわになることがある。それはたいてい、多くの国民が熱烈な思いを持っている出来事、あるいはたいへん愛国心を共鳴させる出来事に、進行中の歴史的修正や再評価の焦点が合ったときだ。例えば、一九一三年にもそのような事例があった。それは、チャールズ・A・ビアードが「合衆国憲法の経済的解釈」の中で、憲法制定者たちは実際には自分たちの金銭上の利益となる社会政策を追求したと論じたときである。ビアードは、たいへんな中傷をこうむった。すなわち、彼は、学校に通う子どもたちが尊敬している愛国者の動機に異議を唱えたと批判されたのだ。歴史的解釈の問題をめぐるこの論争も、たいへん緊迫したイデオロギー闘争の時期に起きており、当時は保守派と改革派が産業資本主義の統制に関する政府の役割をめぐって戦っていたのだ。(158頁)


■リチャード・H・コーン「危険な状態―エノラ・ゲイ事件」

中止を強いることで政治的な検閲だという、あるいは言論の自由や開かれた討論、真理の追求、批評家が信仰告白する価値への抑圧だという非難が起きても、エノラ・ゲイ展を中止させたり、愛国的な記念行事に変えさせることは、他の同じような動きを抑止する付帯的な効果があるだろう。(190頁)


■マイク・ウォレス「文化をめぐる戦争」

大衆を政治的公正主義から解放するという保守派のもったいぶった言葉は、単に人をまどわせるだけではない。エノラ・ゲイ事件で表面に表れた唯一の「政治的公正主義」はといえば検閲であって、これは本物の展覧会を中止させて、人々が自分で判断することをさまたげた。展覧会が息の根を止められていくのを見ているのは不快だったし、検閲に回った者たちが哀れっぽい口調で自分たちの無力さを訴えるのは、聞くにたえなかった。弾圧を解放だといいくるめる、このジョージ・オーウェル風のやり方をしりぞけないと、右翼がこのように問題をでっちあげるのを許しておくと、スミソニアンが自己を卑しめたやり方は、さらなる抑圧を呼ぶ前触れになるかもしれない。(221〜222頁)

アメリカにはいまだかつて、歴史的な「一線」を指示する文化省はなかったが、まちがいなく「愛国的」なものの見方を促進するために文化的な施設を巡視する私的な自警団員がたくさんいた。一九二五年に、米国在郷軍人会は、歴史の教科書は「子どもたちに愛国心を吹き込まなければならない」し、「おもに成功した話をしなければならない」と、言明した。その後数十年間のうちに、とりわけ、一九五〇年代にはこの団体はかなり勢力を拡大して、彼らが反アメリカ的だと考える知識人は黙らせるか、首にしろと要求してきたのだった。(224頁)

おおかたの検閲者たちは、歴史は英雄的なものでなければならないと主張する。「われわれの子どもたちには、英雄が必要だと思う」と、リン・チーニーはいう。「彼らには、大志をいだく助けになる、偉大な人間のお手本が必要だと思う」。だが、すでに伝統的な祭壇に祀られているのは、右派の連中が価値があると思っている英雄だけ―ハリエッド・タブマンたちは基準に達していないようだ―だという事実は別として、偉大な行為を吹聴することは、国の歴史の発展を本格的に探求するものとはならないし、「愛国的」な歴史も同じである。それがどういうものを意味しているかは、実際のところ、はっきりしないのだ。(227頁)


【コメント】
 「エノラ・ゲイ展示論争」をめぐる数多くの論稿の中でも、本書は間違いなく最も秀逸な論文集である。アメリカのリベラル派がますます保守化するアメリカ国内の風潮に、敢然と立ち向かう様が見て取れる。

 冷戦が終結し、90年代に入ってからアメリカ人が抱き始めた漠然とした不安が、保守化する世論の背景となっていることを、本書の執筆者たちは正確に認識している。マイクル・S・シェリーの以下の分析は、アメリカ人の自信喪失を連想させるものである。

皮肉にも、エノラ・ゲイ論争と「愛国者たち」の部分的なその勝利は、アメリカが軍事的ヘゲモニーをにぎっていた偉大な時代が終わりに近づいていることを示したのだった。(134頁)

 不安や自信喪失は、外交政策の消極化よりも、むしろ強迫観念から来る積極化へと通ずる主因となる。それらは自分の行為に対する客観視をほぼ不可能にし、自らの行為が正義に基づいて為されていると強く信じさせる。自信過剰よりもはるかに怖いと考えるべきだろう。

 イラク戦争で米英軍が勝利を確実なものにしつつある。この戦争がアメリカの世論にどういう影響を及ぼすのかはまだわからないが、もし戦果が予想以上に良ければ、逆に世論の強迫観念は長期的には沈静化する方向に向かう可能性もある。今は武力行使反対の諸国に対して聞く耳を持たなかったとしても、強迫観念の沈静化が起こればアメリカ自らが自国の外交政策を批判的に振り返る日が来るかも知れない。