「論文は、近代の中で分断され商品化された個をとりもどす、ポストモダンの自分物語である」
小笠原喜康『最新版 大学生のためのレポート・論文術』講談社現代新書、2018年より。
※強調・下線は引用者。
最近、学士力とかジェネリック・スキルというコトバがいわれるようになってきた。これまでも、いろいろな「力」のコトバがいわれてきたので、一時のはやりかもしれない。もっとも、このコトバには具体的な中身がなく、意味不明である。「~力」などというのには、注意した方がいい。おおむね、私たち一人ひとりの生き方のためというよりも、経済界や国家からの、押しつけ人間像だからである。(pp.3-4)
知識も「~力」もじつは一緒で、共に世界への自分のかかわり方の別名にすぎない。そこに、自分の世界、自分のかかわりがなくては、どんな知識もどんな力も、スマホの画面を流れていく一時の根無し草にすぎなくなる。(p.4)
では、自分の世界、自分のかかわりである、知識や「~力」をつけるにはどうしたらいいのか。ここで注目されるようになってきたのが、あたりまえといえばあたりまえであるが、論文を書く力である。論文を書くには、必要な情報を検索して、問題点を絞りこみ、筋道をたてて表現しなくてはならない。こうした、探求力、構想力、論理力、表現力を総合的に身につけられるのが論文を書く作業である。(pp.4-5)
こういうとすぐに、論理的思考や文章の本を読もうとする人がいる。だがそうした本をいくら読んでも、筋道だった文章が書けるようにはならない。なぜなら論理は、自分がつくるものだからである。必要なのは、自分の文章と格闘することである。そしてその格闘のために、より細かなところに気をくばることである。人間は、頭の中で考えずに、外の紙などに書いて、それをみつめて考えるようになったので、より複雑なことができるようになった。つまり、人間にとって大切なのは、頭の外で考えることなのである。(p.5)
最近は、形式的なパラグラフ・ライティングを最初に書くことを勧める論もある。だが、最初からそのようなものを書けるなら、なにも苦労はしない。文章において、パラグラフを意識するのは重要である。だが現実の論文作成は、もっと泥臭く、もっと逡巡し、もっと後悔的である。簡単ではない。自分との闘いである。(pp.5-6)
そうした、泥臭さや逡巡や後悔が、論文の出来不出来より重要である。その苦しさの中で、自身があらわれてくるからである。結果ではない、過程である。論文は、近代の中で分断され商品化された個をとりもどす、ポストモダンの自分物語である。どうかあなたの論文の中に、あなた自身をみつけてもらいたい。(p.6)