たかが言葉、されど言葉

相手が自分と話していてその会話を楽しいと思えるかどうかの分岐点は、自分の考えでは「言いかえの的確さ」ではないかと考えています。相手が言ったことを、「それは○○ということですよね」と違う言葉でかつ相手がまさに考えていることを的確に表現できたら、相手は「この人は自分の話をちゃんと聞いてくれてる上に、状況を正確に理解してくれている」と考えるのではないかと思います。言いかえは無限に可能なので、俗な言い方、高尚な言い方、平易な言い方、難解な言い方、いろんな言い方を知っているほうが当然相手の心の琴線に触れる可能性は高くなります。

先日亡くなった井上ひさしは、「小説――文章をもって『天地を動かす』仕事である」と書いています。(『井上ひさし全選評』)
ただ、言葉が人間の生き方を大きく変える力を持っていることを承知しつつも、その限界もきちんと認識しておく必要があると思います。

今、司馬遼太郎の『坂の上の雲』(文春文庫・全8巻)を電車の中で読む本にしています。やはり面白いです。この国民作家の作品は長らく読み継がれ、日本人の心性を形作ってきました。きっとこれからもそうでしょう。

しかし、内田樹は『日本辺境論』(新潮新書)の中でこう書いています。

「読んだときに心のひだにしみいるように感じるテクストの書き手は種族に固有の論理や情感を熟知している。そういう書き手や作品を検出するために簡単な方法があります。それは外国語訳されているかどうかを見ることです。

例えば、日本を代表する国民作家である司馬遼太郎の作品の中で現在外国語で読めるものは三点しかありません」(『最後の将軍』と『韃靼(だったん)疾風録』と『空海の風景』)。『竜馬がゆく』も『坂の上の雲』も『燃えよ剣』も外国語では読めないのです。驚くべきことに、この国民文学を訳そうと思う外国の文学者がいないのです。いるのかも知れませんが、それを引き受ける出版社がない。市場の要請がない。

不思議だと思いませんか。現在日本人のエスタブリッシュメントの心性や感覚を知ろうと思ったら、何はともあれ、司馬遼太郎藤沢周平池波正太郎を読むのが一番簡単な方法だと私は思いますけれど、どうやらそういうふうに考える人は海外では少数らしい。

それどころではありません。吉行淳之介も、島尾敏雄も、安岡章太郎も、小島信夫も英語では読めません。

思想家において事態はさらに深刻です。日本の戦後思想はほとんどまったく海外では知られていません。例えば、吉本隆明は戦後の日本知識人たちがどういう枠組みの中で思想的な深化を遂げてきたのかを知る上では必読の文献ですが、アマゾンで検索する限り、吉本隆明の外国語訳はひとつも存在しません(加藤典洋さんによると、『共同幻想論』だけはフランス語の訳書があったそうですが、今は入手できません)。当然ながら、江藤淳埴谷雄高谷川雁村上一郎平岡正明も、外国語訳はありません。おそらくこれらの思想家たちの論理や叙情があまりに日本人の琴線に触れるせいで、あまりに特殊な語法で語られているせいで、それを明晰判明な外国語に移すことが困難なのでしょう。」(『日本辺境論』102〜103頁)

言葉が「種族に固有の論理」からどうしても逃れられない以上、言葉には幻想と自己満足がついてまわります。言いかえを駆使して相手との円滑な意思疎通が可能になったとしても、それによって伝えたいことの全てが伝わるなんていう期待は到底持てません。かといって人間にはそれに代わる手段もないので、それを全面的に放棄しようとするのは極端で幼稚な態度でしょう。限界を認識しながらも、言葉の力と向き合っていかないといけないのが人間なのだと思う。