雨宮処凛『プレカリアート』書評

プレカリアート―デジタル日雇い世代の不安な生き方 (新書y)

プレカリアート―デジタル日雇い世代の不安な生き方 (新書y)

本書のタイトルである「プレカリアート」という言葉は、イタリア語で「不安定な」を意味する「precario」と「プロレタリアート」をくっつけた造語だそうである。戦前のプロレタリアートとの共通性を明確にしないまま使われているので、あまり意味のある言葉とは思えない。むしろ水島氏の「ネットカフェ難民」のほうがピンと来る。

日雇い労働で日々を食いつないでいる若年貧困層については、やはり水島氏の本のほうが詳しいし実態に即している。また、本書で使われている厚労省の「ネットカフェ難民は推定で5400人」という調査結果も、水島氏の本では疑問を投げかけられている数字である。

著者である雨宮氏の貢献は、そうした現実の詳細なルポではなく、自身の奇抜なルックスともあいまってこの問題により多くのスポットライトを当てさせたことである。詳細なデータや事例に関しては、他の本を当たるべきである。

それから、第五章の「超世代座談会」を著者は「全員『本気モード』なのだ」(134頁)と多少自己陶酔的に書いているが、自分には双方が相手側の現実を全く知らないで(知り得ないで)イメージでばかり語っているので、不毛な議論にしか思えなかった。また、最初からフリーター側に有利な議論の仕方である。

コミュニケーションを諦めるべきだとは思わないが、世の中には「話せばわかる」が全く通じない人もいるのだということを改めて実感する。

第六章の石原慎太郎との議論もとんちんかんで、話が全然かみ合っていない。この問題の宣伝効果以外にはあまり中身のない議論だった。

また、一番気になったのは、220頁での引用の仕方。ここで著者は、阿部真大氏の『働きすぎる若者たち』(生活人新書)の一節を引用しているが、さらにその引用の中で高原基彰氏の本が引用され、さらに高原氏は経企庁が1985年に出した報告書の特定の箇所をかいつまんで説明しているものである。

なぜ著者は、経企庁総合計画局編『二十一世紀のサラリーマン社会』(東洋経済新報社、1985年)に直接当たらないのか。こういう「孫引き」(曾孫引き?)は物書きとしてやってはいけないことだと思う。その後の論の展開から見て、ここで経企庁が具体的にどういう文言で表現していたのかは非常に大事なところである。それを自分で確認しないで人の引用のそのまた引用だけで済ますというのは、ノンフィクションライターとしては失格である。

ただ、本書では非常に重要な論点もいくつか含まれており、自分にとってもそれらは同意できるものであった。とりわけ、世間で通用している「好きでフリーターやっている人たちは、貧乏でも文句を言う資格はない」というもの。一面的にはそれが妥当なところもあるのかも知れないが、著者が言うとおり、「貧乏で楽しくやっていても、『金持ちになる』自由はある」(233頁)。そもそも、好きなことをやっていて貧乏でいなくてはならない必然性はない。

おそらく世の中の正社員たちも過酷な労働環境で働かされているだろうから、好きなことや夢を諦めて安定した正社員の地位にいる人たちが「曲がりなりにも好きなことをできている人たち」の異議申し立てを素直に肯定できない気持ちが強いのだろうが、そもそも怒りの矛先を間違えている観が否めない。

それからもう一つ、これも非常に多くの人が口にすることだが(本書の中での石原慎太郎もそう)、「いくらネットカフェ難民の境遇がひどいとは言っても、イラクチェチェン北朝鮮の状態に比べたら全然ひどいとは言えない」という論理。こうした論理はまったくもってナンセンスである。なんでもかんでも比較対象にできると思ったら大間違いである。そんな論理が許されるのであれば、世の中のどんな苦しみも「全然たいしたことない」と言い得る。

少なくとも同じ社会の中で、その社会全体の平均的な数値や価値観に照らし合わせて「偏りすぎている」と思われる点があるのであれば、素直にその現実を認めて、できることはやろうと思わなくてはならない。

本人が正しいと思ってしゃべっていることも、案外奇妙な論理の上に成り立っていることが多い。そういう「常識」を根本から疑ってかかるという姿勢は重要である。本書のそういう点には非常に共感できた。