秋葉原の事件について

こういう事件が起きると、本当にいろいろな情報が飛び交う。なんでも鵜呑みにして決め付けないことである。

昨日の日記「人はなぜ差別するのか」でも書いたことだが、人間は目の前で理解不能なことが起こると、なんとかして自分が理解できる枠内に収めようと、通常では考えられないような無理をする。

今回の件でも、なんとかしてこの犯人の「異常な部分」を見つけ出して、悪のシンボルにしようとする動きが至るところで見られる。いかに彼が自分たちとは違った存在かを強調することで、自分が「安全圏」にいることを確信して安心したがる。

しかし結局最後になってわかるのは、「犯人はそこらにいる普通の人、つまり自分自身とさして変わらぬ一般人」だというのが常である。

凶行の原因を数少ない要因に求めようとするのは控えるべきだと思うけど、自分にとって一番納得しやすいのは、現代のコミュニケーションのあり方が、基本的に人間性を疎外するような形態になってしまっているのではないか、ということである。人は他者を疎外することによって「われわれ」の側の一体感を保とうとする。ナショナリズムの原理と一緒である。

「あいつはキモい。浮いている。あんな奴、相手にすんな。それに比べて俺らはこんなに仲良くやってる。どう?いいでしょ。」

現代のコミュニケーションの中には、多かれ少なかれこういう「他者の疎外」が含まれている。もちろん、強烈に自省を込めて言っているのである。勢古浩爾も言っているように、現代は「他者の承認の絶対的な量」が不足している時代である。みんな、「自分は認められたいけど、他人を認めたくはない」のである。

でも勢古も言うとおり、「承認をめぐる闘争はそう甘くはない」のである。認められたければ、自分が他者を認めるしかない。「どうせ俺(私)なんか」とふてくされたり、「あんな奴相手にしなくていい」と思っているうちは、現代における承認の供給不足は解決されず、いつまで経っても認められないことへの鬱屈はなくならず、それがときどき極端な形で外部に爆発する。今回の事件のように。

毎年マスコミは日本の学生の人気就職先だけど、「マス」コミュニケーションの前に、「パーソナル」コミュニケーションの哲学と実践からきちんと学び直すべきじゃないか?コミュニケーションの不全が、いろんなところでいろんな害悪を垂れ流してる現状で、もっとコミュニケーションそのものについての意識が高まるべきだと思う。