人はなぜ差別するのか

人間は「わからないという状態」を最も恐れる生き物である。自分に理解のできないもの、自分の認識の限界を大きく超えるものに対しては、人は強い否定的感情を抱く。

例えば、何年か前にニュースで有名になったハンセン病ハンセン病について詳細を知っている人は、自分も含めてあまりいないだろう。確たる感染の根拠もないのに、長いあいだ隔離と差別に苦しんできた人たちの実態がようやく明るみに出たニュースだった。

でもこれだけ大きくニュースで取り上げられたあとの現在でも、例えばハンセン病患者が自分に近づいたり隣に座ったりした時、みんなはどう反応するだろうか? おそらく反射的に「怖い」と思うはず。ハンセン病患者の宿泊を拒否して訴えられたホテルの人たちも同じ反応をしたのだろう。ハンセン病に限らず、ひょっとしたらHIV患者でも同じことかも知れない。それが無知のもたらす感情である。

反射的に恐怖感を抱いたり、どうしていいかわからず戸惑ってしまうことを、人は不快に感じ、できることならそういう状態を避けたいと思うのが普通である。だから、人はその「自分の理解を超えたもの」に遭遇すると、それを「普通じゃないもの」として、「普通の世界の側にいる自分」とは全く異質のものと考えたがる。その異質のものにネガティブなレッテルを貼り、時には露骨に攻撃的な態度を取って、「自分が恐怖を感じていること、戸惑っていること」を覆い隠そうとする。自分が臆病であることを知られたくないのである。

大阪の池田小学校で児童殺傷事件が起きた時、ワイドショーのレポーターをはじめ、誰一人として「なぜそのようなことが起きたのか」まだ理解できなかった時、全ての番組が一様に流した子供へのインタビュー映像。その子が言った言葉を、どの番組も繰り返し流した。それはなんだったか。

「金髪やった」

実際に犯人は金髪ではなく、茶色く脱色していたに過ぎなかった。でも実際に事件の時に教室にいた子供がそう話す映像をテレビは繰り返し流した。自分に到底理解できない不条理な事件が目の前で起きた時、人はなんとかしてそれを何か自分に理解できる文脈に無理やり当てはめて、少しでも理解の足しにしようと必死になる。

子供が「犯人は金髪やった」と言っている映像を視聴者が見て、普通の人ならどう思うだろうか。「やっぱり、犯人は普通じゃない奴だった」と「普通から逸脱した存在」として自分から切り離し、自分自身はさも不可侵の安全地帯にいるかのごとく考え、「金髪の奴は何しだすかわからん」という結論に(そういう意図はないにしろ)導いてしまう。

普段自分が考えている「普通」を、もう何度も何度も疑って、「それは実は普通でも当たり前でも全然ないんだ」というのをわからないと、いつまでも差別を生み出す恐怖感や戸惑いから解放されないし、その結果、社会の中で無数の「生きづらさ」の元を作り出していく。

常々思っていることは、他人の言うことを鵜呑みにして黙ってばかりいちゃダメだということ。

「自分がいかに普通になろうなろうとしている生き物か」
「そもそもその『普通』とはなんなのか。誰が決めたのか」
「『自分は普通』と思い込むことで、疎外されている人がいかにたくさん社会の中にいるのか」

そういう想像力を持てないで、人の言うことを鵜呑みにし、「自分は『普通』という安全地帯にいる人間」と思い込んでいると、実はそういう人が紛争とか戦争の最も根源的な原因だったりすることに、少しは思いを致してみては?

そういえば、キング牧師がいいこと言っていたのを思い出した。

「最大の悲劇は、悪人の暴力ではなく、善人の沈黙である。沈黙は、暴力の陰に隠れた同罪者である。」
― マーティン・ルーサー・キング(アメリ公民権運動指導者)

「常識」とか「世間体」とかいう言葉でもって、陰に陽にこちらに権力を行使してくるものに常に敏感でいなくてはならない。そして無意識のうちにそういう権力行使の前に頭を垂れてしまっている自分の姿も想像してみなくてはならない。大学の先生も上司も先輩も、すべて疑う対象である。常に批判的でいなくてはならない。

ただし人を批判するにはそれなりに覚悟と勉強量がいるので、自己の客観視と批判も必ず伴いながら、これからもたくさん本を読んでいきたいと思っている。