森博嗣『科学的とはどういう意味か』

科学的とはどういう意味か (幻冬舎新書)

科学的とはどういう意味か (幻冬舎新書)

よく「自然の猛威の前に人間は無力だ」という言葉で片づけてしまうことがある。これは、「油断をするな」という教訓としては正しい。しかし、自然の猛威から人間の命を救うことは、可能である。それができるのが「科学」であり「技術」なのだ。極端な言い方になるけれど、科学的な知識を持っていることが、身を守る力になる。「気持ち」だけでは人は救えない。きちんとデータを分析し、そこから予測し、次の手を打つことが人類の力なのだ。(12-13頁)

科学を避けることは、この現代に生きていくうえではほとんど無理なのである。「僕は日本語が嫌いだから、日本語は聞きたくない」と言うのと同じレベルだといっても良い。もはや、好きとか嫌いで片づけられるものではない、ということだ。(15頁)

考えれば自分勝手になってしまうから、あまり考えない方が良い。素直に感じてしまうと、自分だけ浮いてしまうかもしれないから、なるべく感じないように、と感情を遮断してしまう。人の感情を口では重んじているけれど、実はその分だけ自分の感情が遮断されているのだ。そういう人が大勢いるように観察される。

そして、そういう人ばかりになると、みんなが周りばかりを気にして、笑えば良いのか、怒れば良いのか、と不安な顔を見合わせることになる。そんなところで、誰か一人がぼそっと呟くと、みんながそれに同調して一気に大きな流れになることもある。一方的な見方、短絡的な意見であっても、大勢が同じ方向へあっという間に集まり、メータが振り切れてしまう。そういう現象が起こりやすくなる。それぞれが個人で考え、個人で感じていれば、そこまで社会が一方向へ進むような危険はまずないはずなのに、考えない人、感じない人が多くなれば、この種の現象はこれからますます増えるだろう。特に、現在のようにネットが普及してくると、大勢の意見や感情が短時間で増幅される危険がある。(60-61頁)

「数学なんか社会に出たら、なんの役にも立たない」という言葉も、社会に出てある程度の経験をした者が発したものにちがいない。しかし、学校で学んだ科目のうち何が社会で直接的に役立つのか、という観点からは、僕はむしろ、「算数や数学ほど社会で役に立つものはない」というまったく反対のことを感じるのである。

ここが、おそらく本書の一番重要な、いわば焦点というべき部分だろう。
既に書いたように、算数や数学、そして物理といった科目が教えてくれるのは、「道理」というものの扱い方、すなわち、ものを考える「方法」である。勉強とは「言葉を覚える」ことだ、と思っている人には、数学が実社会で役に立つものには見えない。つるかめ算が役に立つような場面はないし、微積分の能力が求められることもまずない。しかし、これらの精神ともいえるもの、すなわち「科学」の「方法」は、まちがいなく現代社会の基盤を成している。(62-63頁)

いくら多くを知っていても、ある一つの問題に対して「知らなければ」、その人間は無能になる。これを知っているからといって、あれを知っているとは限らない。知識とはそういうものだ。(100頁)

「科学者は、科学でなんでも解決できると傲っている」と言う人がいるけれど、それは、その人が勝手に思い込んでいる印象である。むしろ、科学ほど「謙虚」なものはない。(中略)ちょっとした質問に対しても、「まあ、だいたいそうですね」と割り切って答えることができないのが、科学者である。それは、少しでも例外が認められるなら、僅かでも違う可能性が考えられるならば、肯定することはできないという姿勢であり、なによりも謙虚さの表れといって良い。(112頁)

人間は単純化を無意識に好むものであり、概念に名前をつけ、言葉によって理解したつもりになる。(中略)「神」という言葉を信じれば、人間のこと、社会のこと、自然のことを理解したつもりになれる。(中略)科学の発展とは、そういった「神」の支配からの「卒業」だったのだ。したがって、科学によって得られるものとは、人間の自由である。(130頁)