林周二『研究者という職業』書評

研究者という職業

研究者という職業

研究者の大先輩である筆者が、これから研究者をめざそうとしている若者へ向けて、またはすでにその道に踏み出している駆け出しの若年研究者へ向けて、厳しくも暖かいエールを送る本である。筆者が接した偉大な研究者の生き方や実際の自分の体験からつづった「研究者の心得 八箇条」は参考になる。(この書評の最後に引用してあります。)


筆者は、研究者とは「自由職業人」であるという。ごく少数の一流研究者を除けば、ほとんどの研究者は本業だけでは食べていけないので、企業などの組織や大学などの教育機関に所属して組織の一員にならざるを得ない。しかしそういう現実があるとしても、基本的には研究者はみなそれぞれ独立した主体として研究に携わる存在なのだという。こういう気持ちは自分も忘れずにいたい。


また、本書には簡単に感想を書くのみではあまりに興味深く重要な論点がいくつもあるので、論点ごとにまとめてみたい。


若いうちに研究を躰で楽しんだ経験をもっているかどうか

大事なことは、彼が研究生活を、自主的に自分の躰で楽しんだ経験を、若いあいだにもってきたかどうかに掛かっている。」(51頁)
「若いときから、歴史・実証的な研究を続けてきた同僚とか、統計などを使ってデータ分析の仕事をやってきた連中は、高齢になってからも、比較的に論文や著作多産の傾向を持続していることが見出せる。(中略)
大へん残念なことだが、僕がこれまで勤めてきた大学で、直接指導した大学院生たちの研究論文テーマ選択を見ていても、研究のテーマを自分自身の眼で現実のなかから発見し、自分自身の頭で分析の筋道を構築することに努める者の数は極く少数であった。彼らは学界流行の亜流のような、ありふれた陳腐な論文テーマを選ぶ者がほとんどである。それは流行に乗り遅れまいという態度ではあっても、研究や分析を本当に自分自身で楽しもうとする態度からは遠い。(52〜53頁)

研究とは、頭の中だけであれこれ流行の概念をこねくり回すものではなく、体全体で楽しめるようなものじゃないと長続きしないということだろう。「このテーマは本当に面白いと自分でやっているだろうか」と絶えず自問することが必要だと思う。


専門用語を正しく使うことの重要性

例えば、統計の世界で「農家」とか「失業者」とかの用語は、農業センサスとか労働力調査とかの主要統計で具体的に明瞭に規定されていて、その指し示す内容が、僕らが日常の俗語で「農家」とか「失業者」とか言うのとでは、その定義内容つまり概念規定がかなり相異っている場合が少なくない。(中略)その定義も十分に弁えず、ただ二五〇万軒とか五%とかの数字だけを独り歩き的に取り上げて研究報告を作ったり、それを読んだりしてみても意味がほとんどないことを、学術研究者ならばまず十分よく判っておく必要がある。「農家」の数なども、その定義の仕方では三二〇万とも、五五万とも言えるのである。(95〜96頁)

学術書が一般向けの教養書と比べて難解なのは、その分野の人でなくてはわからない専門用語が多いからである。よく「難しいことを易しく解説できる人が本当に優れた学者」と言われるが、学者の側からすれば「軽々しくわかった気になってもらっては困る」という気持ちもあるのだろう。

医学とか法律とかの専門術語も素人には判りにくいものが多い。しかし彼ら専門家に言わせると、なまじっか常識日常語をそこで使うと、かえって一般の人に誤解される惧れがあるという。これは大へんもっともな理窟である。(96頁)

確かに勢古浩爾の『思想なんかいらない生活』(ちくま新書)の第1章で紹介されている、インテリのちんぷんかんぷんな言葉遣いのようなものになると文句も言いたくなるが、かといって大衆にわかってもらいたいがために安易に身近な言葉に置き換えてしまうと、大衆に単純化と価値相対化の態度をとらせることになってしまうかも知れない。わかったつもりになってそこで思考がストップしてしまうのなら、それは弊害のほうが大きくなってしまう。


どんな研究者でも数量的処理能力は必要

これからの経験科学としての社会研究者一般に共通に要求されるものは、各種資料の数量的(numerical)、そして数理的(mathematical)な処理能力であろう。(中略)


僕らは彼らに、何も数学や統計科学の専門家になって欲しいと言っているのではなく、それの初等的で基本的な分析法を、せめて必要な範囲で身に付けて欲しいと考えているに過ぎない。(141〜142頁)

データだ資料だと騒いでいるうちに、それらを表面的に用いて取り繕ったゴミ研究がわんさか出てしまうことになった。(谷岡一郎『「社会調査」のウソ』文春新書を参照。)そのため、データや資料をうまく使うスキルだけでなく、それらによる欺きを見抜くスキルも必要とされるようになってしまった。基本的な統計学の考え方と研究での活用法はどの分野の研究でもこれから必要とされるだろう。


純粋科学ほど優秀な研究者が集まる?(二流には二流なりの役割がある!)
 ここは一番読んでいて面白かったところである。よくここまで言い切ったものだと思う。

まず僕のような社会・人文科学分野は、数物・自然科学の分野に較べて、高等学校時代の優秀な学生が集まる度合が平均的に少ない。また同じ社会科学のうちでも、経済系でいうなら、経済学より経営学系のほうが平均的に能力の低い連中が集まってくる。また経営学の領域内では、純経営学よりも商学マーケティング系が、さらには会計学系が、の順でそこへ研究者として集まる者の質が落ちる。(その理由は、思うに学問研究分野としての純粋性が、上述の研究分野のうち、後者に至るほど逐次低くなるためだと考えられる。ただ即効実用研究という面からみると、後者のような分野ほど研究者に対する社会的需要の門は広くなる。)それは、あたかも企業でいうなら中枢部で企画活動などにあたる者よりも、外野で活動する営業マンや販売担当者のほうが、頭数を必要とするようなものである。


僕はこれまで、大学で統計学とかマーケティング分野関係の大学院生の講義や演習を担当してきたが、とくにマーケティング院生たちへ向いて、いつも素直に言うのだが、


「諸君の専攻分野は経済系のうち相対的にレベルの最も低い連中がくるところだから、諸君はそういう事実を逆手にとって活かせ。君たちはこの分野で努力すれば、競争仲間連の質が他の分野ほどには幸いに高くないから、この分野なら多少頭脳レベルが劣る者でも頭角をあらわすことが、他分野よりも研究者として容易である。その積りで努力しなさい」


と激励することにしている。ただし、


マーケティングや福祉などの研究分野では、まわりの研究者仲間(それには内外の研究者や大学教師、学友を含めて)の研究能力、資性もおしなべて低いから、それをもって他の学術一般の水準だと思って心を緩めては危険だ」
とも言い添えることも忘れない。


こういう遠慮のない言い方をすると、彼らは余りいい顔をしないが、自己を取り巻く研究環境を冷厳に客観的に認識しておくおとは、どのような場合にも大切である。(157〜158頁)

いくぶん決め付け的な言い方の印象がしないでもないが、筆者の言う「学問研究分野としての純粋性」(すなわち学問の理論性)が高いほど流行に左右される可能性が低くなるであろうことを考えれば、分野ごとに大学院生・若年研究者の思考の抽象度が異なるのは確かだろう。


「総論・概論」の研究の重要性

かつて太平洋戦争中の社会科学の暗黒時代、若い学生層を対象に数多くの啓蒙的文献を残した河合栄治郎東京大学教授、社会思想・経済学)という先生がいた。僕なども河合の書物にはずいぶん影響を受けた一人である。その彼が、学問を事とする人間の一生について次のような教訓を記していたことを、いま僕は思いだす。河合はいう。大学に職を奉ずる者を例にとると、その研究生活を船出させる第一段階時点では、まず思いきって彼がこれから研究しようとする学問分野全体についての「概論」的な本を書いて世に問え。その本は、彼が研究者としては、なお駆け出しで未熟なるがゆえに、極めて欠点の多い書物として誕生するであろうが、彼はそのことを少しも恐れたりする必要はない。


とにかく彼は、この種の概論書に筆を染めることで、彼がこれから進もうとする学問研究分野の全体像を否応なく学ばされることになる。(若いうちから、狭い専門的なタコツボに嵌まりこむことは、研究者として一生視野の狭い人になってしまう。)こうして若い研究者が著わした「概論」の本は、欠点も多くあるだろうが、そこには若さによる気負いの迸しりが必ずや見られるだろうから、そこには既成大家の手になる「概論」の本などにない鋭さとか意欲とかが現われていて、それは既成の学問世界を刺戟することもまた小さくないはずである。


河合は続けていう。次の第二段階で、彼はやがて一人前の研究者に育ってゆくことになるが、研究者としてこの脂ののりきった年齢のあいだは、間口を狭く、掘り下げた研究仕事に照準を絞って深く打ち込み、そこで専門的な研究業績を大いに挙げるよう努めよ。さらに、学問する人間の人生の最終の第三段階では、彼はもういちど彼の研究人生の総決算として、改めて再度、体系化にもどって「概論」の筆を執れ。それは彼の研究者としての人生を総括する円熟したテキスト・ブックとして学界を益することになるであろう、と。


以上見たように河合は、研究者を大学教授の場合に当てはめ、その学問的生涯のあり方を若・中・老年の三段階に分けて説明しているわけだが、(「概論」を書くかどうかは別として)研究者たる者は、その研究分野について「総論としての全体像研究」と「各論としての部分像研究」とを、生涯のあいだに交互にやるべしといった趣旨を説いているのだ、と僕は考えたい。この行き方は、研究者の生涯の生き方のひとつとして僕も大賛成である。(168〜169頁)

テキストを書くかどうかは別にしても、分野の概論を学ぶことで全体像を俯瞰することの大切さはその通りだと思う。テキストになる論文を書いても研究業績にはならないだろうけど、それによって過度の細分化を未然に防げるかも知れない。「それは私の専門外だから…」は知の広大さを畏れる者の謙虚な態度なのかも知れないが、あまりに連発するとやはり寂しく、言い訳がましく感じられる。


積極的に良い研究環境の構築を

研究者の場合は、良い師、良い友、そして良い書物(つまり情報源)を選択することは、諸君自身が何よりも心掛けるべき、それが君という苗の「環境対策」である。とくに若い時代、あらゆる機会を捉えて、良い師、良い研究仲間づくりに努めたい。(194頁)


なお、見識らない研究上の先輩とか有力者とかに顔を覚えて貰うにしても、また他流の道場に試合を申し入れるにしても、いきなり君が他所の門を叩いても、そう簡単に入門させて貰えるとは限らない。そういった場合、初対面の大先生や先輩に名前や顔を覚えて貰える一番の近道かつ王道のひとつは、僕の経験では、研究者の場合、相手に良い質問をぶつけてゆくことである。ツボを衝いた質問をしたりすると、立派な先輩や先生ならば必ず「おや、こいつはなかなか手応えのある若者だわい」と頭に入れてくれるものである。こういう質問は、逆にみると、先輩や先生の器量や力量を試すにも役立つ。(194〜195頁)

この箇所は全くその通りだと思う。学生にとっては自分が指導を受ける教授や同期の仲間たち、研究者になっている人にとっては同僚の研究者たちの存在が決定的になる可能性が大きい。そしてそれは偶然の運や縁もあるだろうが、そういった研究環境は自分で意識的に変えられるものでもある。そして良い研究環境を構築するうえで非常に重要なのは、筆者の言う「良い質問をぶつけてゆくこと」であるのも間違いのないことである。最近は安易に「力」をつけるきらいがあってあまりいい印象を持ってはいないが、その意味で「質問力」が問われているのであり、良い質問をできるということは日頃からその分野の動きを深く正確に追っていることの証でもあるから、その人の研究者としての質を測る基準になる。


これまでいくつかの研究世界についての一般書を読んできたが、その中でもこの本はかなり面白くかつ参考になる内容のものであった。特に以下の八箇条は、わかっていると思っていても時々読んで確認すべき内容のものであると思う。


☆   ☆   ☆   ☆   ☆


[一] 研究者たろうとする者は、世間に追随したりせず、自分独自のユニークな研究テーマをもつべきだ、ということ。とくに戒めたいのは、流行りのテーマの尻だけを追っかけてはいけない、ということである。(僕からさらに一言付け加えていうと、研究者は自分の能力や得意・不得意の点をよく自覚し、それに見合った個性的な研究テーマを択ぶべきだ。能力を超えたり、能力以下のテーマに取り組んだりしてはいけない。)


[二] 右の点を熟慮したうえで、研究上これこそは重要(essential本質的な)だと考えられるテーマに取り組むこと。詰まらない(trivial末梢的な)研究テーマに関わりあって、研究者人生の貴重な時間をあたら浪費してはいけない。何が重要で本質的か、何が瑣末で末梢的かを見極めることは、研究者の眼力に関わる最も大切なことである。


[三] 研究者たる者は、つねに開拓者精神でその研究活動に当たること。周到な計画性をもってその仕事に取り組み、いったん作業に入ったからには必ず成功する覚悟をもつこと。(失敗するのは、事前の研究計画の立て方が杜撰だったことに原因するところが大きいという、この西堀流の考え方については、さらに?・6章で考察する。)


[四] 研究者は、じっさいに世の役に立つことを、自己の研究の主旨とすること。(なお「世の役に立つ」とは、空論のための空論を徒らに弄ばないということであって、目先の世俗的・実利的な役にすぐ立つとの意味ではない。)


[五] 狭い日本でより、広い全世界で、自分の学問や研究仕事が認められるように努力すること。研究者は活動の舞台を狭くでなく、大きく広く取るようにすること。


[六] 研究者を志す人は、なるべく優れた立派な師を頼って、その下に就くよう努めること。東大総長だった有馬朗人も、この点を特に強調し、「師に仰ぐならノーベル賞級の人の下に就け。研究者としての君の将来は、全く違ってくるはずだ」と断言している。


[七] これからの学術多様化時代に研究者が生きてゆくには、狭いタコツボ的な道場(=研究室)に閉じこもったりせず、武者修行的にいろいろな道場の門をたたき、他流試合つまり他部門や隣接部門研究者たちとの積極交流に努めること。


[八] 研究者にとって研究の職場を五年ないし十年ごとに変えることは、研究環境の転換、したがって研究そのものの視界拡大に大きく役立つと考えること。