川成洋編『だから教授は辞められない―大学教授解体新書』書評

sunchan20042005-01-05

研究者をめざそうと決意した人は、大学院に進学してから最低でも10年は苦しい生活を余儀なくされる。学部を卒業してそのまま就職した同期生に比べれば、定職に就いて経済的に独立できるのが最低でも10年遅れることになる。しかもこの最低10年というのは、ただの10年間ではない。研究を続けることのつらさはもちろん、いろいろな不条理との戦いの連続である。本書は、一人前の研究者になることがどれほど厳しいことなのか、さらに若い研究者の卵の運命を決める人間にどれほど救いようのない人間が多いのかについて、各執筆者の実体験に基づいて書かれたものである。研究者をめざしている人はもちろんのこと、これからその道に入ろうと考えている人も、現実の厳しさを知るために一度読んでおくべき本だろう。


ほぼ「時給制のアルバイト」と言ってもいい非常勤講師について、執筆者の一人が次のような詩を書いた。初めに読んだ時は笑ってしまったものの、他人事だと言ってばかりもいられない。


「辞令」(竹添敦子)


辞令を広げて
常勤に非ずという字を見るたびに
おまえは一人前に非ず
おまえは人間に非ずと
念をおされている気がして
破り捨てたいのをこらえては
机の奥に封じ込める
(57〜58頁)


本書を読んで一つ驚いたことは、私立大学の教授の給与および退職金の高さである。(259頁第一表参照)これだけ高額な退職金を出しておきながら、私大の台所事情が苦しいといって国庫助成の大幅増額を求めるのはやはり常識的に考えておかしいだろう。70歳定年から65歳定年にするだけで何十億円という予算が確保できるならば、これが大学改革の一環として注目を集めるのも当然である。


欧米の教授たちはどのように考えているか知らないが、日本の大学教員たちの中には、研究と教育をはっきりと分けて考える人が多いように思う。(高山博『ハード・アカデミズムの時代』講談社、1998年参照)研究活動に没頭したいがために、あからさまに教育活動を嫌う人もいる。しかし、本書を読めば実際にはそうした区分は間違っているということがわかる。大学教員自身が「「教える」という行為の権力性と快楽を充分に知っている」(148頁、日垣隆)からだ。もちろん「教える」ことの快楽を知ってはいても、実際に教えることと研究を区別する人はいるだろう。『ハード・アカデミズムの時代』著者の高山博もその一人であるように自分は感じた。しかし自分は、そのような考え方はかなり傲慢だと思っている。今生徒がどのようなことに疑問を感じているのか、そして普段狭い限定的なテーマについての研究ばかりしている大学教員にとって、教えられる側の意外な視点が自分の研究に思わぬ方向性を与える契機になることだってあるだろう。逆に研究せずに教師ができるというのも甘い考えである。そこには「教育とは技術なのだという誤った偏見」(170頁、桜井邦朋)がある。

どんな教育科目に対しても、教育にあたっては、教授の研究能力や実際に上げた業績が、いろいろな形で陰に陽に重要な役割を果たすので、研究をせずに、教育の責任が十分に果たせるとは私には考えられないのだが、教授たちの中には、教育と研究とは別だと考える者がかなりの数にのぼるように見受けられる。(同上)

また研究者にとって、自分が知らないことを聞かれた時に便利な言い訳がある。「それは私の専門外でありまして…。」そして、自分のやっている研究がどれほど瑣末なものであるかを一般の人に知らせないための言い訳もある。「これは高度に専門的なことなので、ちょっと説明したぐらいではわからない。」実際にはそのような人の研究者としてのレベルに、一般の人はとうに気が付いているのだが、本人はその言い訳を強く信じているのである。

こうなると、どっちにしても、何もいわないのと同じだということになってしまう。私たちの間では、狭い専門分野を墨守している研究者には、その分野のことさえ公正にみる判断力が失われており、結局は、この狭い分野すら十分には理解できないのだといわれている。(179頁)

言い得て妙である。