杉山幸丸『崖っぷち弱小大学物語』書評

崖っぷち弱小大学物語 (中公新書ラクレ)

崖っぷち弱小大学物語 (中公新書ラクレ)

 もはや大学教育が大衆教育になって久しい。少子化のあおりで入学者の定員割れが起こり、受験者のほぼ全員が合格できる「Fランク大学」(FにはFreeで入れるという意味もあるそうだ)における大学教育について、現場にいる大学教員として日々の苦労をつづっている。先生と生徒の間にある溝をなんとしてでも埋めようとする著者の努力には涙ぐましいものがあるし、「少なくとも人文系の弱小大学における教育の目標は教養教育ということにつきる」(120頁)という著者の意見は、弱小大学に限らず、その通りだと思う。

 しかし、本書で一貫して述べられている著者の問題意識はかなり遅れてはいないだろうか。大学生の学力低下にしても、大学数の激増とそれに伴う大学教育の大衆化、教育の質の低下にしても、もうかなり前から言われ続けている問題である。「大学改革」という言葉は、80年代から叫ばれていたものではなかったか。そうした議論に何か新しい知見を本書が加えているとはあまり思えない。全体的に主観的・精神主義的な主張が多く、具体策が提示されているわけではない。

 また著者も認めているとおり、この調子で行けば「二〇一〇年前後に大学の三〇%が廃学に追い込まれると予想される。」(24頁)それならばいっそのこと、大学の半分くらいは廃止になっても構わない、大学にはエリートだけが進学すればいいのであって、「まちがって大学に来たような学生」(37頁)は、高い授業料をもっと有意義なものに使うべきだ、というもっともな論も巷には存在するが、そうした論に著者はまだ反論できていないと思う。大学数が激減してもいいのかどうかについて、著者は何も言っていない。

 また著者は、特に弱小大学において、専門教育よりも教養教育の重要性を強調する。それには自分も異論がないし、教養教育は、一見何の役にも立たないようでいて、実際には分野横断的な広い視野と論理的思考力を養うための重要な場になっていると思う。ただ、こうした教養教育を受けるのが大学という場でなくてはならない理由はあるのだろうか。大学に来て高い授業料を払うなら、同じ額を費やしてボランティアやNGO、NPOの活動に参加したり、世界中のいろんな国を自分の目で見てきたりすることのほうがずっと有意義だし教養を養うことにも貢献すると言う人がいたとして、著者はそれにどういう反論をするだろうか。もし大学が教養教育のためのなくてはならない制度というわけでもないのなら、著者がいくら現場で生徒と向き合って必死に頑張っても、Fランク大学は消えていくしかないのではないのか。だって、もし今述べたことが本当なら、別に大学じゃなくたって教養教育は受けられるのだから。「大学でなくてはできないこと」という点が本章では弱い気がする。