J.フランケル『国際関係論』(東京大学出版会、1972年)書評

sunchan20042005-03-24

国際関係論 (UP選書 (98))

国際関係論 (UP選書 (98))

40年も前に書かれた国際関係論入門書の訳書である。翻訳されたのも30年前だ。しかし訳者があとがきで述べている通り、「本書の目的は、いわゆる現状分析ではなくて、国際関係の多彩な動向の基礎にある、国家の行動様式について基本的なモデルを提示すること」(294頁)であるため、出版から数十年経った今もなお、現に国際関係において通用している分析枠組みが数多く示されている。「国際社会の高度に動的な性格」(11頁)にも関わらず、著者は「国際社会内部に作動している社会的な力は、その実質の点では、つねに変化するが、しかし、その作動の様式の点では変化しないものなのである」(11〜12頁)と言う。つまり、統一と分離の間を触れる振り子の速度や幅は、その時によって変化するが、統一と分離という運動の極自体は変わらないということである。

まず、著者は明らかに現実主義的な見地から国際関係を見ている。多中心的なバランス・オヴ・パワーが国際秩序の安定に寄与すると至る箇所で述べている。しかし、著者が単純な力の信奉者でないことの証左もまた、多くの箇所で垣間見られる。一般に当為のものとして見られがちな国際法について、著者はそれを力の観点から無力なものとは見ず、むしろ積極的にバランス・オヴ・パワーと関連付けようとする。

国際法は、論理的演繹からではなく、国家による実践を通じて形成されてきたものである。それはバランス・オヴ・パワー体系と密接に結びついており、その体系の内部で、法は、国家相互の関係の中でそれぞれの国家がもつべき権利と義務とを確定するという重要な課題を果したのであった。国際法の基本的規則の大部分は、バランス・オヴ・パワー体系が成立しはじめた一五、六世紀に発展したものである。(250頁)

我々は国際法と権力政治を、理想と現実の対立軸でもって見る傾向がある。しかし、実際には著者が言うように、国際法が機能したのは、「バランス・オヴ・パワーの作用によって、国家的安全が保障されていたという背景があったから」(252頁)だと考えられるのである。これは対立概念どころか、相互に補完しあっているとも言うべき概念である。

他方で著者は、同様に理想主義的な目的を持つものと見られがちな国際組織については、「バランス・オヴ・パワーと密接に結びついていない」(255頁)と言う。国際組織が数多く現れたのは、

「バランス・オヴ・パワー秩序が例外的に安定していたことによっていた」(255頁)が、「しかし、この秩序がその後混乱するようになっても、現存組織が解体することはなかった。それどころか、秩序の動揺はかえって更に新しい組織の設立を誘った。それらの中には、国際連盟国際連合といった最大の政治的意義をもつ組織も含まれている。」「実際、それらは、主として、バランス・オヴ・パワー体系が有効に機能することを止めた後に現われてきた二〇世紀的な勢力関係や観念を体現しているといえる。」(同)

バランス・オヴ・パワーに、安定した秩序を築く機能を認める著者は、冷戦のような二極構造を極めて不安定なものと見ている。この二つの決定的な相違を以下のように説明する。

一九世紀のバランス・オヴ・パワーは、(英仏普墺露)五列強間の相互作用に基礎をおいており、これら諸国のうちどの一国も他国が存続することに利益を見出していた。それに対して、アメリカもソ連も、いずれも相手側が生き残ることに真の利益を認めなかった。というのは、どちらも他方がいなければ、世界がより安全になると考えていたように思われるからである。(216頁)

さらに著者は、二極構造を不安定なものと見ているためか、「当時予想されたような両極構造の世界は、現実とはならなかった」(10頁)と断言する。すなわち、各々の陣営内で「ナショナリズムの勢力が成功裡に自己主張しはじめ」(218頁)、「一九四〇年代末には、両ブロックのいずれの側でも内部的結束がそれ程強まっていないことが明らかになった」(同上)のであった。冷戦構造の存在そのものに疑義を呈する見解である。

また、国家の主権について、著者は興味深い説明をしている。

主権という観念のもつ意味も、国内政治と国際政治との二つの文脈の中ではまったく異なっている。対内主権とは、政府が国家の政治体系の内部において至高であり、全体が部分に優先するということを意味するが、対外主権は、個々の政府が国際政治体系の内部でそれぞれ至高であり、部分が全体に優先するということを意味している。換言すれば、国家の内部では政治体系が強力に中央集権化されているのに対し、国際政治体系は高度に分権化されているのである。(198頁)

国内政治と国際政治の根本的な差異は、国際政治学のどのテキストにも書かれていることだが、このような説明の仕方もあるのだという一つの例である。

著者の考えについて、全体を通して言えることが一つある。それは、国家間の相互作用には常に多数の相対立する要素が並立しているということ、つまり同時に紛争と協力が並存しているものだということを認めた上でなお、それは、国際政治のモデルをたてることが無意味であることを意味しないとの立場に立っていることである。これは一見常識的な見解であるように思われるかも知れないが、モデルをたてることで、複雑な現実が過度に単純化されるという批判が決してなくならない事情を考慮するならば、再度確認しておくべきものであるように思う。そしてこの立場から、著者はゲーム論を、「利益が対立している面と共有されている面との両方を、現実に並存しているがままの姿で捉えようとする」(125頁)ものとして評価するのである。

以上の著者の立場を、著者の言葉によって説明すると次のようになる。国際政治において「何らかの作業仮説ないしはモデルをたてる」際、

国際政治のさまざまな類型で相対立しているものを調整しなければならぬところに困難さがある。すなわち、われわれが主題を取り扱うとき、国家の役割か国際政治体系の役割かのいずれか、また紛争か協力かのいずれか、また明確だが次第に消滅していく過去の類型か曖昧で単なる仮説に過ぎない未来の傾向かのいずれかに強調をおくことになるのは避けることができない。(醬頁)

従って、著者は各国の「個体としての特質」の研究と、「各国の比較」研究が目的を異にするのは必然であると考える。

それぞれの国家には、個体としての特質があり、それは一般化を許さず、詳細な研究をまってはじめて明らかとなるものである。他方、各国の比較を容易にするためには、研究対象となるあらゆる国家について、同じ考察方法を用いること、つまり常に同じ問いを、同じ順序で提起することが望ましい。その場合、提起した問いのもつ意義や、答えの性質は国により一様でないことは承知の上である。もし各国を、その国の特質を浮きぼりにするような方法で取り上げるならば、そこでの分析は、他との比較という目的には、ほとんど役立たないであろう。(77〜78頁)

現実の複雑さを認めながらも、比較分析をするために理念型を作り上げることの意義を否定しない著者の態度は、理念と政策、理論と現実を峻別して、各々を対象とする研究の両方を正当に評価する姿勢へとつながっているのではないだろうか。

ソ連の支配層は共産主義イデオロギーの信奉者であるという場合、それは彼らが共産主義を全世界に拡まるべき価値と信じていることを意味しはするが、しかし、彼らが現実に世界の共産主義化のために具体的な目標を追求していることを意味するとは限らない。(中略)共産主義イデオロギー共産主義の普及を望ましいとするものであるから、共産党の指導者たちは当然にそれに見合った膨張主義的な政策目標を追求するといった単純な考え方は、ソ連の政策目標に起る変化の可能性を看過させる危険がある。他方、もし共産主義者たちも、西側には共産主義を排除したいという願望(それは実際西側のイデオロギーにおける重要な要素である)があるからといって、西側がこの願望を実現するために侵略的な戦略目的を追求しているとする非難が当たっているわけではない、という点に気付くならば、それは好ましい結果をもたらすであろう。(66〜67頁)

多分に国際的要素を含んだ内政上の問題は時を移さず国際的に作用しはじめるに違いない、という側面があるにしても、国家と国家との間の直接的な相互作用を集中的に考察することが非現実的な作業になるわけではない。(163頁)

最後に、著者の欠点は、大衆というものの価値や力に対する認識が貧弱ではないかと思われたことであった。以下の大衆描写は極めて単線的で、血が通ったものとは到底思えない。

未発達な政治構造をもつ多くの社会では、未熟練でしかもしばしば失業状態にある都市労働者が構成する教育水準の低い大衆は、農村地帯の故郷から離村して日が浅いために不安定であり、また、生活条件の惨めさのため不満を感じている。他方、学生は彼らの属する社会の欠陥を意識しているが、社会の諸問題に合理的または実際的な解決を与える能力はもっていない。このようなところでは、急進的な民族主義者や共産主義者たちの煽動的な呼びかけが奏功する余地が大きいのである。(62〜63頁)

ニュースは注意を惹きつけるため妥当な程度に魅力的な形式をとらなければならない。民衆は、どんな問題点についても正邪の判定を下す重々しい分析に興味を抱いているわけではない。彼らは、平和、侵略、人権、自決などといった情緒的に価値のある言葉が含まれてさえいれば、問題点との関連がどのように曖昧であっても単純なスローガンに容易に反応する。視覚的な印象や具体的な例証は宣伝の影響力に大きな寄与をなす。(178頁)

大衆を愚民とみるエリートの傲慢さが鼻につくというだけではなくて、当時の状況下では、大衆やそれが形成する世論に対して、まだ正当な評価を与えることができなかったのだと考えざるを得ない。たとえその負の側面を述べるにせよ、大衆や世論がもつダイナミクスにも同時に触れるのでなければ、あまり説得力を持たないだろう。

以上の一点において違和感はあったものの、全体的には理論と現実の両面を適切に説明しており、著者のバランス感覚を実感できた一冊であった。