松本三郎、大畠英樹、中原喜一郎編『テキストブック国際政治【新版】

新版 テキストブック国際政治 (有斐閣ブックス)

新版 テキストブック国際政治 (有斐閣ブックス)

【研究ノート】


■国際認識の3過程(24頁)

①記述(description):対象とする国際現象のなかから、その全体を把握し、処理可能なイメージとして再構成するのに必要な事実を選択し、それによって認識対象を確定させること

②説明(explanation):①で確定された限定的な事実を相互に関連づけて、意味のある体系として整序する作業

③評価(evaluation)/規定(prescription)・予測(prediction):
このような現象がどのような意味をもつものであるかについて価値判断を下し、できればこれに対する自分としての「あるべき処方箋」を作成し、さらに、その現象の将来の展開を予測すること


■分析対象による国際理論の分類:制度論的なものと行動主義的なもの(30頁)

国際現象には、大別して国際的、国家的および国内的の3レベルがあるが、このなかからなにを分析の対象として選択するかということをめぐって、戦後の国際理論は、制度論的なものと行動主義的なものとに二分される。

①制度論的なもの(伝統主義)
政治思想の長い伝統に根ざした視点に立って、国家を不変的な目的を追求する統一体的な存在としてとらえる立場から、国家の対外行動を1つのまとまりをもった合理的・有機的な全体としてとらえる。そして、これを主要な分析単位として、国際諸現象をほぼ国家間関係の展開とみなす。

②行動主義的なもの(科学主義)
①のように対象を1つの統一体としてとらえるのではなく、それを、その構成諸単位の行動の状況的・具体的な相互作用によって規定・構成されるものと考える。さらに②は、ミクロ的な心理学的アプローチとマクロ的な国際システム・アプローチとに大別される。

(1)ミクロ的な心理学的アプローチ
隣接社会科学、とくに行動心理学的な分析概念の導入によって、国家の対外行動を個人、とくに政策決定者のそれとしてとらえ直し、これを分析単位として、国家の対外政策決定過程、その相互作用過程などを分析対象とする。

(2)マクロ的な国際システム・アプローチ
国際社会を、こうした国家行動をはじめとする構成単位間の相互作用の全体、すなわち、「システム」(system)としてとらえ直し、(1)と同様にして、このようなシステム全体の構造・機能、システムと構成単位の行動との関係などを分析する。


■分析の方法の違い(30〜31頁)

①の分析方法=直観的・記述的あるいは思弁的。つまり、歴史的事実あるいは人間性、国家および国際社会に対する分析者の固有な省察から生まれる特有の直観力ともいうべきものによって、対象を記述・分析し、規定する方法。

②の分析方法=①のもつ「恣意的な主観性」、あるいは「証拠を欠いたあいまいさ」をしりぞけ、複雑な国際現象について、価値前提にとらわれぬ客観的・操作的あるいは科学的な分析、つまり複雑な国際現象をそのまま生の形で記述するのではなく、リーバー(F. Lieber)のいうように「一定の条件のもとでくり返して誰にも同一の調査結果がえられるような操作可能な」分析方法を求めて、たとえばイメージ、認知、サイバネティックスあるいはシステムのようなさまざまな分析上の(したがって、場合によっては抽象的な)概念・枠組みを新たに設定して国際現象を再構成し、それによって収集されたデータの処理に、自然科学の方法に匹敵しうるような厳密なテクニックを可能なかぎり適用させようとするものである。そして内容分析・因子分析などの統計的な解析・ゲーム理論などの数学的方法およびコンピューターによる大量のデータ処理などは、これらのデータに対する数量的な処理方法の一例である。

→それぞれの仮説・命題も、①では、形而上的・一般的ないしは演繹的なもの、たとえば「人間の権力欲の普遍性」というようなものとなり、②では、より限定された条件のもとで検証可能であるような操作的・部分的ないしは帰納的なもの、たとえばいわゆる「if…, then…モデル」のようなものとなる。


■分析の目的の違い(31頁)

①は、個々の国際現象についての認識のなかから現実の改善策を、分析の直接目的として追求しようとする価値付帯的な「規範的理論」ないしは政策志向的な理論である。他方、②は、個々の国際現象分析の体系化・一般化としての分析的な仮説・命題の構築を追求する「科学的理論」なのである。


■適用範囲の違い(32頁)

理論には、歴史と場所を超えてすべての国際現象に適用可能であることをめざすもの、あるいはそう自負する一般理論と、その適用範囲が、たとえば紛争・危機など特定の現象に限定される部分的理論、あるいは一般理論構築の前段階とされる中範囲理論とがある。制度論的・直観的な理論は本来的に一般理論的であり、行動主義的・科学的なそれは同様に部分的である。


■「伝統主義vs科学主義」と「理想主義vs現実主義」の交錯(32頁)

以上のように、伝統主義と科学主義という二分法は、その方法と目的とから区分される分類法なのである。

→さらに、価値前提における相違から、理想主義と現実主義という第2の分類法が確認される。

→これら2つの対立軸の交差のなかから、戦後の国際理論展開の大筋を確認することができる。すなわち、時代順にいって、その時期ごとに中心的な位置を占めたものは、戦間期の正統理論であった「理想主義」、1950年頃に体系化され、少なくとも50年代を通じて指導的理論であった「現実主義」、以後60年代前半頃までに確立された「ニュートラリズム」、60年代後半から中心的となった「科学主義」、そして最近における科学主義と理想主義の接合形としての「グローバリズム」と、科学主義と現実主義の接合形としての「新現実主義」とへの両極化である。このうち前3者は伝統主義の系譜に入る。


■理想主義と現実主義の「巧みな結合」(E・H・カー)(33頁)

カーは、「幼稚な段階」にある当時の国際政治学を、「目的が思考に先行し、……事実や手段を分析しようとする傾向が弱い原始的段階、すなわちユートピア的段階」にあるとし、やがて「成年期」に達すべき国際政治学の健全さを、「事実の認容と事実の原因結果についての分析を強調する」現実主義と「それがもたらす不毛を防ぐ」理想主義との「巧みな結合」のなかに期待した。


■行動科学の限界(50頁)

一定の刺激とそこから帰結する反応の間にy=f(x)という機能的な関係を設定すること(S-R(刺激―反応)モデル)によって、この心理学的な行動科学は実証化への確実な歩みを示してきた。しかし、この方法も必ずしも万能ではない。すなわち、y=f(x)という機能関係はすぐれてhowの問題を対象とするものの、個人がなぜそのように反応するのかという理由、すなわちwhyの理解に対してはまったく無力なのである。しかし、実証主義を旨とするアメリカ・プラグマティズムはこのwhyの理解に対する視角を本来的に欠如させているので、このwhyの理解についての限界をS-Rモデルだけではなく、広く行動科学一般の限界と考えておく必要があるだろう。


■ゲーム論的行動科学(52頁)

心理学的行動科学とシステム的行動科学の中間にもう1つの潮流が確認できる。それは心理学的行動科学から個人の行動についての格率を引き出すとともに、システム的行動科学から諸個人の行動の相互作用の全体性を引き出すことから導き出されるゲーム論である。心理学的行動科学は心理学から、システム的行動科学は生物学から派生したのに対し、このゲーム論的行動科学は経済学から生じたものである。
 →ゲーム論にも、制約がある。1つは、常に最低利得の保証を求めるという意味で行動形式が保守的であるという批判であり、また1つには、行動の結果が常に利得として数値化される必要があるという制約である。(53頁)


グローバリズム新現実主義(構造的現実主義)

グローバリズム」とは、「国家中心的モデル」批判のなかから、1970年代後半頃に、それに代わる多次元的な分析モデルの構築、あるいは「たんなる客観的な現状分析」にとどまることなく、フォーク(R. A. Falk)あるいはヨハンセン(R. C. Johansen)に代表されるように、「国家中心的モデル」を支える価値体系そのものに対する「ヒューマニスティックで根本的な視座の転換」を主張するようになった積極的な理論的・実践的姿勢に与えられた名称である。(67頁)

→このような「グローバリズム」は、これまでの理論と異なる新理論というよりも、一般的にいって、これまでに説明されてきたような科学主義と理想主義との接合形であることが確認される。

→科学主義としてのそれは、一方では、1970年代の国際システム論の展開の延長線上にあり、しかも、世界を1つの生態的なシステムとしてとらえる社会科学総合的なシステム研究の一端を担うものである。(67頁)

→このような科学主義と理想主義の接合をもたらした契機というべきものは、科学主義の有意性回復への意欲であろう。ベトナム戦争や黒人暴動に象徴される危機の時代における科学主義の有意性回復への要請(たとえば、分析テクニックに対する本質の優先、現実世界とその諸問題に対する深い関心、価値促進のための世界政治への活発な参加など)と軌を一にして、国際理論における「社会科学から社会行動への実践」の表現なのである。(68頁)
※科学主義と社会的有意性が矛盾することはないのか。

他方、「新現実主義」とは、「国家中心モデル」批判に対する反論のなかから、1970年代後半に国家の意義・機能の優位性・重要性を積極的に主張し、国家のパワーとインタレストとを分析ツールとして現在の複雑な国際政治経済現象を全体的あるいは歴史的に説明しようとする理論傾向に与えられた名称である。

新現実主義を特徴づけるものは、グローバリズムの場合と同様な意味での現実主義と科学主義との接合形である。(69頁)

新現実主義における科学主義の側面(69頁)

①国際政治現象を政治的要素と経済的要素との間の複雑な相互関連体としてとらえようとするシステム的傾向を示している。しかもこのような傾向は、グローバリズムと違って、国際体系の理解において、すべての国際主体に等分のウエイトをおくのではなく、国家のパワー配分を最重要視する「構造主義的」な色彩をもつものである。

②それは、この国家のパワーの評価において、数量化可能な要素、とくに経済的要素を中心に測定しようとする数量化的な傾向をもっている。

→それゆえに、新現実主義は、モーゲンソーに代表される現実主義―それは今や、古典的と形容される―に対して、①「国際問題の経済的要素」に対する関心の低さ、②国際体系を「国家のインタレストとパワーの最大化を追求する主権国家の世界」とみなす「ビリアード・ボール・モデル」によって、国際体系の構造よりも、国家の対外政策を優先させ、あるいは、「国家レベルの諸要素」によって「国際的な結果」を説明しようとする「還元主義」であること、また、③ナショナル・インタレストを「パワーの追求」そのものとみなすような「決定論」であること、などと批判するのである。(70頁)

→したがって、この新現実主義からは、国際レジーム論の1つとして、国家間のパワー配分がヘゲモニックな構造、つまり覇権国家が存在する構造をもつような国際体系―たとえばパックス・ブリタニカあるいはパックス・アメリカーナのように―が安定するとする、いわゆる「覇権安定論」、あるいは、そのような覇権国家のパワー変化によって長期的な政治変動を説明しようとする「長期覇権循環論」、あるいは「大国の興亡」論などが生み出されてくる。(70頁)


■「ナショナル・インタレスト」概念に対する批判

「国家の対外行動の目的であり、行動全体の適切さを判断する基準であるナショナル・インタレスト概念がまさにその価値付帯的・規範的概念であるがゆえに、これまで伝統主義と科学主義の双方から徹底的な批判を受けてきた」(73頁)。

→「しかも、この概念がほぼモーゲンソー的な意味だけにとらえられ、批判を受けているということは、戦後の国際理論の展開のなかでモーゲンソー理論がどのように解釈されていたかを知り、また、今日批判の対象たる「国家中心的モデル」なるものに与えられている意味・内容の背景を知るうえで、きわめて示唆的である。」(73頁)


【書評】

国際関係論の復習の意味も込めて、最近は「国際関係」とか「国際政治」という言葉のついた教科書的な本をいくつか読んでいるが、この本は旧版が出てからもう20年以上も経っている。新版でさえ出たのは90年なので、すでに10年以上経っている。内容は多少古臭く感じるものの、特に「第2章 国際政治の理論」は面白かった。その他の章は歴史的事実や国際機構についてただ単に記述しただけの文章なので、特に取り上げるべきことはない。よって第2章についてのみ評価の対象とする。

国際関係論に限らず、おそらくどの学問においても存在する対立だと思うが、1960年代から、国際関係論では「制度論的なもの(伝統主義)」と「行動主義的なもの(科学主義)」の対立が顕在化した。分析の方法としては、前者は「歴史的事実あるいは人間性、国家および国際社会に対する分析者の固有な省察から生まれる特有の直観力ともいうべきものによって、対象を記述・分析し、規定する方法」(30〜31頁)をとる。それに対して、後者は以下のような分析方法をとる。

前者のもつ「恣意的な主観性」、あるいは「証拠を欠いたあいまいさ」をしりぞけ、複雑な国際現象について、価値前提にとらわれぬ客観的・操作的あるいは科学的な分析、つまり複雑な国際現象をそのまま生の形で記述するのではなく、リーバー(F. Lieber)のいうように「一定の条件のもとでくり返して誰にも同一の調査結果がえられるような操作可能な」分析方法を求めて、たとえばイメージ、認知、サイバネティックスあるいはシステムのようなさまざまな分析上の(したがって、場合によっては抽象的な)概念・枠組みを新たに設定して国際現象を再構成し、それによって収集されたデータの処理に、自然科学の方法に匹敵しうるような厳密なテクニックを可能なかぎり適用させようとするものである。そして内容分析・因子分析などの統計的な解析・ゲーム理論などの数学的方法およびコンピューターによる大量のデータ処理などは、これらのデータに対する数量的な処理方法の一例である。(31頁)

行動主義的心理学のアプローチから影響を受けた科学主義は、そのスマートな分析方法と客観性の重視によって、学問に革命的な影響を及ぼした。科学主義が伝統主義の曖昧さや恣意性を攻撃したのに対し、伝統主義はいかなる反論を展開したか。伝統主義に分類される(古典的な)現実主義者のH・モーゲンソーは「理論の有効性が判断されるのはその結果においてであって、その理論的な装いや方法論的な斬新さにおいてではない」(47頁)と反論した。モーゲンソーは、科学主義が科学的・客観的な分析方法を極めて重視している点に、彼が批判し勝利してきた理想主義の影を見たのかも知れない。

一つ気になった点は、藪野祐三が行動科学の限界として、howに答えることはできても、whyという問いに対しては全くの無力だと言っていた箇所である。しかしこれは科学主義の立場をとる論者からすれば、反論の余地があるのではないだろうか。藪野は以下のように書いている。

一定の刺激とそこから帰結する反応の間にy=f(x)という機能的な関係を設定すること(S-R(刺激―反応)モデル)によって、この心理学的な行動科学は実証化への確実な歩みを示してきた。しかし、この方法も必ずしも万能ではない。すなわち、y=f(x)という機能関係はすぐれてhowの問題を対象とするものの、個人がなぜそのように反応するのかという理由、すなわちwhyの理解に対してはまったく無力なのである。(50頁)

これへの反論(または賛同)は、実際に自然科学の分野の方にお願いせねばなるまい。

少し専門的になるが、この伝統主義vs科学主義という対立軸の他に、現実主義vs理想主義という国際政治の伝統的な対立軸が交差したところに新たな理論上の両極化が起こった。理想主義と科学主義が融合したものとして、昨今人口に膾炙する「グローバリズム」が、そして現実主義と科学主義が融合したものとして、ウォルツやカプランに代表される「新現実主義(ネオリアリズムまたは構造的現実主義)」がある。(32頁)

最後に「グローバリズム」について言及しよう。前述の通り、グローバリズムは理想主義と科学主義の接合形としてとらえることができる。そして科学主義が理想主義へと傾くことになった契機とは、「科学主義の有意性回復への意欲」(68頁)なのだと大畠英樹は言う。すなわち、科学主義における洗練された方法論のみに満足せず、それによって現実の世界での行動につながるような価値や規範を追求したことが「グローバリズム」という形となって現れた。具体的には、平和研究の確立や人権などといった普遍的価値の追求といったものが挙げられる。

これは、科学が客観性を強く求めることから来る「人間性の軽視」というかなり誤解に基づいた批判に、科学主義の立場の者が応えようとしたことから始まった動きだろうと思う。それは確かに評価できるかも知れないが、他方で、科学と社会的有意性が矛盾を来す局面は本当にないのだろうかという思いも完全に拭い去ることができないのである。というのも、中西寛『国際政治とは何か』の中で述べていたように、科学に対して社会的な有意性をあまりに強く要求すると、科学そのものが歪められる恐れがないとは言えないからである。従って、何の留保もなしに理想主義と科学主義の接合形としてのグローバリズムを全世界に推し進めようとすると、様々な局面で反発や抵抗を引き起こすことになるのである。社会的有意性という錦の御旗があるために、それだけ弊害も大きい。確かに世界は、徐々にではあるがグローバリズム中西寛は「世界市民主義」と呼ぶ)を志向する方向へ向かいつつある。しかしそれが全地球を覆いつくすためには、科学と価値意識の衝突に対処する方策が必要となるだろう。グローバリズムが真にグローバルになるためのハードルは、現実にはかなり高いと言わざるを得ない。