川成洋『大学崩壊!』(宝島社新書、2000年)書評

sunchan20042005-01-06

本書の内容は、『だから教授は辞められない』とほぼ重なるものである。学問の世界からはとっくの昔に引導を渡された「教授」が「学内政治屋」として暗躍する実態、そのような教授の職業病と言っても過言ではない、すさまじいアカハラ(アカデミック・ハラスメント)及びセクハラ、「学内政治屋」に生殺与奪の権を握られている助手・非常勤講師の哀れな実状。いずれもが『だから教授は辞められない』の中でかなり詳しく言及されていたものである。


非常勤講師の問題は、とりわけ理科系の分野において、近年オーバー・ドクター(OD)問題(ポスドク問題)と関連して注目を集めている。つまり、博士後期課程を修了しても常勤で就職していない人が、長引く不況とカリキュラムの自由化の影響で大幅に増えている状況を指す。そのような人たちは数少ない非常勤の仕事を競って奪い合うことになるのだが、仮に非常勤の仕事が得られたとしても、その非常勤講師の実態というのがあまりにもひどい。本書の中で引用されている『サンデー毎日』元編集長の牧太郎氏の言葉を再引用させてもらおう。

ここだけの話だが、日本では非常勤講師の待遇は最悪である。週一回の講義(九〇分)に支払われる賃金は月二万五千円程度。僕のように本業を持ちながら、社会勉強をさせてもらうものにとっては適当な収入だが、週五コマ講義する“本職の非常勤講師”の年収は百五〇万程度。これだけでは生活できない。授業の準備を考えればファーストフード店のアルバイトの方が気楽で収入もいい、と自嘲気味に話す人もいる。(130頁)

本書の核心は、大学教授の知的荒廃ぶりである。それにしても、20年間一本の論文も書かない(書けない?)人が恥ずかしげもなく教授を名乗っていられるのは日本の大学くらいなのではないだろうか。欧米の大学では「Publish or perish」という有名な言葉があって、つまり「書かない者は消えてしまえ」という意味である。業績がなければ即座に追放される制度が確立している。(もちろんこれにもある種の弊害があることは事実だろう。)ある調査によると、日本の大学教員で、過去五年間に一本も論文を書かない者が全体の4分の1いたという。しかもこの「大学教員」というのは、昇格を控えて必死で論文を書いている講師や助手を含めたものであるから、教授だけに限れば半数くらいがおそらく一本も書いていないものと思われる。また日本の場合、書けば自動的に掲載される紀要や学内雑誌に載ったものも一本の論文と見なされるため、実際に業績に値する論文を書いている教授はかなりの少数派であると考えられる。ベストセラー『大学教授になる方法』の著者、鷲田小彌太・札幌大教授が、紀要「論文」について以下のような面白いことを書いている。

紹介に窮するような内容のものが、「論文」ということで、各大学の研究「紀要」を飾っているのである。
・日本語をようやく書く能力しかない程度の「論文」がある。とても読めないのである(かなりある)。
・何を書いているのか分からない、最低限度論旨の通った内容を展開する能力に欠ける「論文」がある(これも多い)。
・「正義」や「趣味」をただ大声で論じるだけの内容空疎な論文がある(多い)。
・「事実」を脈略なく羅列する論文がある(実に多い)。
・「フィクション」と見紛うような荒唐無稽なものがある(これには、いくぶん技術がいる)。
・横文字のへたな翻案物がある(これは、びっくりするほど多い)。
(16頁)

自分の言いなりにならない教え子や部下の教員に対する「学内政治屋」教授のアカハラぶりにも凄まじいものがある。著者が以前に被害者を匿名にしてアカハラの実態を雑誌に掲載したところ、何人かの知り合いから「それはうちの大学のことか」と聞かれたと言う。その知り合いのそれぞれが違う大学に勤めているのである。どこの大学でも、程度の差こそあれ、このような陰湿な嫌がらせやいじめがあると考えるべきだろう。


『だから〜』には言及されていなかったのが、大学教授のみならず大学生自身の荒廃ぶりである。『分数ができない大学生』『小数ができない大学生』『算数ができない大学生』(いずれも東洋経済新報社)などの刺激的なタイトルを持つ本が近年数多く出ていることからもわかる通り、「大学生の学力低下問題」も社会の強い関心を集めている。このことからも、大学改革とは大学人だけが考えるべき問題ではなく、より深い社会の病理現象と密接に関わっていると考えるべきだろう。