嵐山光三郎『死ぬための教養』(2003年、新潮新書)書評

死ぬための教養 (新潮新書)

死ぬための教養 (新潮新書)

本書は、著者が吐血や交通事故で死にかけた時の実体験をもとに、床に伏せている間に読んだ、何らかの形で死と深く関係している書物についてのエッセイである。先人たちの「死の考察」に触れた際の著者の思いが綴られる。

著者はあとがきの最後でこう言う。


「天才の医者も学者も凡人もスポーツ選手もみんな死んでいく。長い闘病生活のはてに死ぬ人も多く、いまの時代に求められるのは、自分が死んでいく覚悟と認識である。来世などあるはずがない。いかなる高僧や哲学者でも、自己の死をうけいれるのには力がいる。
いかにして悠々と死んでいくことが出来るか。いかにして安心し自分の死を受容することが出来るか。自分を救済しうるのは、使いふるした神様や仏様ではなく、自分自身の教養のみである。祖母は、九十九歳のときに「いままで好きなことをしてきたから、この世に未練はないが、死んだことはないから、死ぬとはどういうことなんだろうねえ」と言いながら死んでいった。こうなると死ぬことが愉しみにさえ思えてくる。死への考察は、人間の最高の興味の対象であろう。」(188頁)
自分が死ぬという現実を受け入れながら、悠々と死んでいく。これは誰にでもできることではないのだろう。どれほど偉大な人間であろうと、死を前にしてはうろたえるかも知れない。著者いわく、少し前までは「死ぬための教養」とはすなわち宗教であった。現世においてどれほどつらい思いをしようとも、その苦しみは来世において報われると約束することで、宗教は信じる者に希望を与えてきた。信じることができる者は死を受け入れることができたのである。しかし宗教の無力を嫌というほど思い知らされる現代では、もはや「死ぬための教養」は宗教ではあり得ない。「「自己の死」を受け入れる力は、宗教ではなくて教養であります。死の意味を知るために人間は生きているといってもいいのです。」(15頁)「幸い、先人たちには、死についての深い考察をなした人がいて、そういった識者の本を吟味熟読して読み、自分なりに納得するしかないのだ。」(187頁)

死にまつわる本として、哲学的なもの、遺伝子についてのもの、闘病や漂流についてのもの、宇宙論など幅広いジャンルのものが紹介されている。

「太陽と死は直視することができない」(24頁、ラ・ロシュフーコー)、そして「死に挑戦し、それを克服しようとする」(157頁、エリザベス・キューブラー・ロス)者は「全能と不死身を願う私たちの幼児的な願望を投影している」(158頁、ロス)のである。そこから力の誇示としての暴力が現出する。「戦争、暴動、増加するいっぽうの殺人、その他の犯罪は、私たちが受容と尊厳をもって死を直視することができなくなった証拠かもしれない。」(158頁、ロス)

死を前にしてうろたえる人間、そして国家。宗教に頼らず自身の死への覚悟を持つことは、ひょっとしたら暴力への最も有効な対抗手段であるのかも知れない。教養は死んでなどいない。それが持つ普遍的な意味を今こそ再認識すべきである。