宇都宮直子『ペットと日本人』書評

ペットと日本人 (文春新書 (075))

ペットと日本人 (文春新書 (075))

自分の日頃の興味関心とは程遠いトピックを扱う本書を縁あって読むことになったが、予想外に多くの知らなかった事実を知ることができた書であった。ペット(愛玩動物)を取り巻く現状、ペットと日本人の関わりの歴史、欧米の動物観と日本の動物観の比較など、とても興味深いトピックを扱っている。ペットとして最も典型的な犬猫の飼育頭数が年々増え続けていること、それに伴って動物に対する認識が大きく変化を見せていること、そうした変化によって生じてきた新たな問題(ペット・ロス、飼い主の安易な責任放棄によって生じるペットの大量処分、利益最優先の無理なブリーディング、使役動物に対する社会的認知の低さなど)が存在することが本書で明らかにされている。とりわけショッキングなのは、毎年大量に処分される動物たちの処分場のルポである。

日本では現在、毎年、四十万頭以上の犬と三十万匹以上の猫が、全国の地方自治体が管轄する動物収容施設に集められ、殺処分されている。それらの中には、迷い出てしまったと思われるものもいるが、大半は捨てられたり、飼い主が「やむを得ない事情」から持ち込んだ犬猫である。(88頁)

その「やむを得ない事情」というのは、実際には飼い主の無責任から発生しているらしい。

その理由は、「引っ越し」が一番多く、ついで「飼い主の体調不良」、そして「ペットの病気・高齢」などとなっている。(90〜91頁)

かつて行われていた「残酷な処分」というのがどういう方法で行われていたのかは知らないが、「比較的苦痛が少ない」として炭酸ガスで淡々と殺処分されていく現行プロセスは、機械的な分だけ余計恐ろしく伝わってくる。

処分室には、縦一メートル半、横一メートル、高さ一メートル半ほどの処分機と、それに並行して、一度に三十五頭が処理できる大きな焼却炉が置かれている。処分から焼却までの作業は自動化されており、職員は別室でモニターを見ながら、それを進めてゆく。
保護期間の過ぎた犬は、この処分機に中型の犬なら六頭から八頭ずつ入れられ、炭酸ガスにより処分される。過去には、残酷な処分が行われていたこともあったが、現在では、比較的に苦痛が少ないという理由から、全国のほとんどの施設でこの処分方法が取られている。
密封された処分機の中に炭酸ガスが送り込まれると、犬たちは呼吸困難になり、五、六秒のうちに膝を折るようにばたばたと倒れてゆく。そして三十秒ほどで完全に意識を失う。説明によれば、死に至るまでの数分の間に、苦しんで暴れたり、声を上げることはないという。(97頁)

他方で、現代人特有の都市型孤独感を癒すために、ペットの存在がますます必要とされるようになっている現状も存在している。さらに、Animal Assisted Therapy (AAT)、またはAnimal Assisted Activities (AAA)、俗に言う「アニマル・セラピー」が、心身両面における病気の治療・治癒や痴呆の緩和・回復に大きく貢献した例があることもわかった。


欧米から生まれた動物愛護運動は、文化相対主義への反省とあいまって、今後ますます勢いを強めることが予想され、「文化の特殊性」を盾にそうした運動の理念を一蹴することはますます難しくなっていくだろう。犬肉や鯨肉を食べる文化に対する昨今の風当たりの強さを考えても、それは明らかである。著者は本書の中で、欧米の動物愛護運動にも矛盾・欺瞞が存在していることをきちんと指摘しているが、基本的にはその運動の理念を肯定的に評価している。しかしながら、現在盛んになっている欧米の動物愛護運動の背景にもおそらくキリスト教的価値観の影響はあると思うので、「彼らはそれ(=キリスト教の人間中心主義―引用者)を正そうとする試みを続け、愛護精神を育む努力をし、現在の優れた体制に繋げてきた」(142頁)という見方には多少の留保が必要だろう。だから、日本であれ欧米であれ、宗教の影響を受けた動物観が「双方が過去から受け継いだ負の遺産」(127頁)であると言い切れるかどうかはわからない。それに、社会的・文化的背景が全く違う過去の時代に対して、現代の価値観からそれに正負の判断を下すことがフェアであるともあまり思えない。


これまでの自分を振り返ってみれば、例えば盲導犬を連れて歩いている人がいたら、その人の邪魔をしないようによけるとかそういった「消極的な協力」程度のことはしていたかも知れないが、それだけでは本書で取り上げられているようなペットや使役動物にまつわる新たな問題の解決にはならないだろうこともわかった。そういう意識を持てただけでも本書を読んだ価値はあったかも知れない。


基本的には、著者が言うように、飼い主は自分の幸福のためにペットを飼っているという見方に賛成である。いかに現代の飼い主がペットに強く感情移入しようとも、動物は人間相手のように明確なコミュニケーションを取れる存在ではない。乳児の「笑顔」に対する親の反応や解釈と同様に、飼い主はペットの仕草や表情に自身の願望を投影しているに過ぎないのである。いくらペットを愛していようとも、いくら「家族」や「パートナー」とみなそうとも、飼育という行為には常に自己満足が伴っていることをきちんと認識している必要があると思う。「自分を客観的に見つめる」という言葉が用語矛盾であるとしても、少なくともそうあるべきだという認識がなければ、ペットに対する強い感情移入から生まれてくるのはネガティブなものばかりになるような気がする。それが著者の言う「一定の距離を保つ」ということなのだろうと思う。例えば、「子供よりもペットのほうがかわいかった」と言う人の話が本書の中で出てくるが(64〜65頁)、そういう人は人間としてどこか欠陥があると思わざるを得ない。自分の主観や願望をそのまま投影しても文句を言わない(言えない)ペットとの幾分自己満足的な関係と、思い通りにならないからこそ地道で細やかな配慮と機微が必要とされる子育てを、そもそも比較できるわけがない。


社会的弱者としてのペット、社会的弱者を支える存在としてのペットを取り巻く新たな環境と問題について、理解を促してくれる本である。ブームだからこそ、独りよがりに陥らない冷静な議論が必要だと思う。