漱石と留学

三四郎 (角川文庫)

三四郎 (角川文庫)

文庫本を読むことの最大の楽しみは、巻末についている「解説」を読めることである。夏目漱石の『三四郎』を読み終わったあとに解説を読むと、漱石という人物に対する思いが一層深いものになる。

明治33(1900)年6月、33歳の漱石は熊本の第五高等学校講師をしていたが、現職のまま、英語研究のためイギリス留学を命じられる。同年9月、ドイツ汽船プロイセン号で横浜を出帆。10月末にロンドンに着いてから、漱石の2年間の留学生活が始まる。(当時は日本からイギリスまで船で1ヶ月半もかかった!)

角川文庫の井上百合子による解説「夏目漱石――人と文学」によると、

オックスフォードやケンブリッジで紳商の子弟たちと交わるには、留学費が乏しいので、語学練習の地として適当と思われるロンドンを留学地に決めた。特権階級によるアカデミックな学問ではなくて、大衆の集まる雑多な生活の中から習得するものを選んだ(あるいは選ぶことを余儀なくされた)わけである。粗末な下宿で「独リボッチデ淋シイヨ」(明治三十三年十一月二十日付藤代禎輔宛絵葉書)と言いながら、漱石はその年を過ごした。(319頁)

ロンドンではもっぱら独りで読書にふける日々だったようだ。

金と暇が惜しいので、大学の聴講は一月ばかりでやめ、シェークスピア研究家のクレイグに個人教授を受ける以外は、もっぱら本を買い、下宿で勉強した。英国人の思想と生活に、十分触れる余裕がなかったのであるが、実際に英国の土を踏んだことは、漱石の目を開き、日本の運命を外側からながめさせるものとなった。(319〜320頁)

2年後の明治35年、結局漱石は一年留学を延期したいという希望を聞き入れられず、同年12月にロンドンを発って、36年1月東京に帰った。

孤独で、不如意な生活の中で、専心勉強した二年の留学生活は、むしろみじめであったが、それは漱石に文学を研究するよりどころを与えた。(320頁)

文豪を引き合いに出すのもおこがましいけれど、滞米中に学位論文を終えられず、帰国直前の数ヶ月を無為にすごした自分にとっては、このあたりの記述は胸が痛くなる。留学中の迫り来る孤独感も、とても他人事とは思われない。

それでも、その「みじめ」な経験をその後の人生の拠り所とした漱石の姿は自分にとっても励みになるし、もしその「みじめ」な経験がなかったとしたら、今の自分の人生はどうなっていただろうかと考えた時、逆に空恐ろしくもなる。

漱石のように「日本の運命」などという大仰なものではないにせよ、少なくとも自分が留学を通して「外から日本を見る視点」を与えられたことは、何ものにも代え難い財産であった。