高島俊男『本が好き、悪口言うのはもっと好き』書評

本が好き、悪口言うのはもっと好き (文春文庫)

本が好き、悪口言うのはもっと好き (文春文庫)

言葉と文字へのこだわり。真っ先に受けた印象はこれだ。「檄を飛ばす」「指摘」「分析する」の誤った使われ方、「望まれる」という言葉の不潔感など、全くその通りだと合点が行く反面、ひょっとして自分もそのような誤った使い方を時にしているのではと冷や汗をかかされる箇所もあった。

言葉というのは生きているものであり、時代および言葉を使う主体の変化とともに変わっていくものであることは確かだ。しかし言葉が本来の由来とは異なる使われ方をしている現代において、それは致し方のないことだと傍観するのが果たして言葉に対する健全な態度と言えるのであろうか。時代とともにどんどん新たな造語ができるのは避けられないだろうが、だからこそ古くから存在する言葉には本来の意味を尊重しなくてはならないはずだろう。そうでなければどのように過去と対話できるというのだろうか。過去との対話がなければ「自分がどこにいるのか、どういう道筋をたどってここにいるのかさえわからない」。「われわれが、安心して、自信を持って現在に生きるには、現在の素姓を知らねばならない。現在の素姓を知るには、過去に話を聞いてみなければならない。」(54頁)国語辞典は死滅語を削除すべきではないという著者の提言(55頁)はこの過去との対話への評価から発する。そしてそれはとりもなおさず文化に関わる問題でもある。単なる懐古主義には終わらない深刻さがここにはある。

「ネアカ李白とネクラ杜甫」では、二人の大歌人が実は愛すべき人となりであったことが面白おかしく語られている。どれほどの天才でも得意不得意があるのは古今東西同じなのであった。まじめで謹厳な杜甫が律詩を得意としたのも、「規則というものは、それを自家薬籠中のものとした人にとっては、かえってその天才を存分に発揮する装置なのだ」(197頁)ということの一つの例として語られている。むべなるかな、杜甫ほどの天才でも先人の偉業(またはそれによって形作られた種々の規則)を無視することはできなかったのである。