辻仁成『ガラスの天井』(集英社文庫、1997年)書評

ガラスの天井 (集英社文庫)

ガラスの天井 (集英社文庫)

辻仁成のエッセイ集、本書と『そこに僕はいた』(新潮文庫)を2冊続けて読んだ。小説からだけではわからない著者の生い立ちや精神面における成長の過程を、このエッセイからかなり知ることができた。この2冊を読んで分かったことは、著者のあまりに繊細すぎる心のひだであった。負けず嫌いで、どれほど叩きのめされようとも喧嘩相手に向かっていった気の強さを持っているかと思えば、友人への無意識から来る疎外や意地悪に対して真に心を痛める繊細さを同時に持っていたりする。彼のエッセイは自叙伝と言うよりも、城戸朱理が『そこに僕はいた』の解説で述べているように、「小説を読んでいるような錯覚を覚える」(201頁)のである。

さて、本書から真っ先に伝わってくるものは、「日本という国の息苦しさ」であった。何不自由のない生活を手にいれることのできた日本人が、他方で精神的な自由をいまだ獲得できずにいる様をうまく描いている。異物を排除するという前提で機能しているのが日本の「世間」というものの特徴である。表面的には自由を謳歌している日本人の中に、いまだ真の自由を体得できないでいる様を著者は鋭く見抜いている。

孤独というものに積極的な意義を見出せないでいる日本人に、それは顕著に現れる。「自分を強くしたい人は、まず孤独になるべきであり、自分をやさしくさせたい人は、孤独の中に浸ってみるべきだろう。孤独こそは、自分という不可解な存在への最初の入口なのである。」「孤独を知っている人は、他人の中へ入っても、自分をなくすことはなく、相手をまた認めることもできる。逆に孤独を怖れる人は、必要以上に他人を求めてしまい、自らのアイデンティティを喪失してしまいがちだ。」(20頁)「孤独=暗い、という図式は、都会が産み落とした副作用のようなもので、孤独な人を鼻で笑う人々は、かわいそうなことに、人とのつきあいかたが、本当はへたな人なのかもしれない。」(24頁)このような著者の見方には強く共感することができる。孤独のプラス面を積極的に評価している自分としては、それができない人間の、孤独な他者への偏見もよく理解しているつもりである。

「文化は路上から生まれる」(33頁)という考えを見事に体現しているフランスと、路上の文化を冷笑する日本との対比も面白かった。日本人はまだまだ真の意味での自由を受け入れるだけの精神的な余裕を持っていないのだ。(青木保『異文化理解』(岩波新書)の「境界の時間」概念を参照。)

血液型で他人を分類することの大好きな人間の、あまりに単純化した他者描写も、著者同様自分は嫌悪する。「どうしても他人を何かのパターンに押し込めないと気がすまない」(93頁)というのは、自分で他人の複雑な特徴を描くことを放棄した証拠である。このような風潮に真っ向から立ち向かうことが言わば文学の使命でもある。芥川賞作家の高樹のぶ子は、「人は黒でも白でもなく誰もが灰色で、しかも変わりゆく不完全な生きもの、という、文学がかろうじて支えている人間観」がますます痩せ衰えていく現状に警告を発している。複雑さを持つ他者や状況への安易なラベリングは、「判別」が容易になるという意味で、その複雑さを「判る」ようにすることができるが、それは決して「解かる」ことではない。「ラベルを一見すれば判別できるのだから、『理解』の努力をしなくても済む」、「理解」からはむしろ遠ざかる、ということになる。(2002年2月24日付毎日新聞、コラム「時代の風」より)