辺見庸『単独発言―私はブッシュの敵である』書評

エノラ・ゲイ号の展示が再びアメリカで問題となっている。テレビの映像にはアメリカの学者や市民団体が、新しくできたスミソニアン航空宇宙博物館の別館で「ヒロシマ・ネバー・アゲイン」と声をあげている姿が映されているものの、おそらくこのニュースはアメリカ国内ではほとんど注目されていないだろう。これと同種の「言説の非対称性」は世界中の至るところに存在し、それを当然視して開き直るか、あるいは逆に、この非対称性に直面して現実を諦観してしまうのが世の常である。

しかし、本書の著者、辺見庸は、こうした「言説の非対称性」を無視して暴力の是非を問う議論を、全て無効だとして拒絶する。9・11テロが史上初めてのテロであったわけでもないのに、「多くの論者たちが、悲劇というものをまるではじめて目撃したかのように、さもわざとらしく驚き嘆き怒ってみせたのである。」(12頁)「米国によって殺された人々のために費やされてきた言葉は、殺された米国人のために費やされているそれに比べ、情けなくなるほど少ない。呆れるほど偏頗で不当なのである。言説の救いがたい非対称性がここにある。」(15頁)

「どんな理由であろうとテロは絶対正当化できない」だの「脅しに屈すればテロリストの思うつぼ」だのといった、普段自分たちが深く考えもせずに使っている綺麗事は、この「言説の非対称性」を前にしていかにも安っぽく響く。そのくらいこの非対称性は際立っている。

この事態に表現者たちはどう対峙すべきか。これが本書のテーマの中心である。そしてそれは「表現者、書き手が、まったく自分は無謬である、“善”の実践者である、という前提からものを書いてしまう」(239〜240頁)姿勢を完全に放棄することだと著者は言う。表面的な事実関係だけを捉えて、薄っぺらな道徳で論じるのではなく、視えない像を視ようとし、聞こえない音を聞こうとする。意図的に隠されたものをあえて視ようと(聞こうと)する。イラク戦争に関連して具体的に言えば、「大量破壊兵器をもっていると疑われ非難されている国家が、その数万倍も多くの大量破壊兵器を保持、生産している超大国によって、やはり大量破壊兵器によって爆撃され、多数の人びとが虫けらのように殺されるという、論理のこれ以上ない矛盾と不整合」(267頁)に対して、はっきりノーと言うことである。「戦後復興」や「人道援助」といった結構な官製語にもノーと言うことである。「帝国の絶対暴力を「理解」し「支持」すると表明したその同じ口で復興や人道を語ることは、殺人を支援しておきながら憂い顔で葬儀費用について云々するかのように冒涜的」(267〜268頁)なことなのだから。戦争が終わって初めて復興と援助が必要になったわけでは決してない。アメリカの意図に沿って復興や人道を語ることにはとてつもない偽善が付きまとう。

本書の中では、「何に対して」「なぜ」、抗暴の姿勢を貫くのかは明確に示されている。しかし「どのように」については、少し抽象的で弱い気がする。まあ見えない現実を無視した(または無視するふりをしている)言説がこれだけはびこっている現在にあってみれば、これだけでも十分意義深い本なのかも知れないが。