潮木守一『キャンパスの生態誌―大学とは何だろう』(中公新書、1986年)書評

sunchan20042005-01-11


大学崩壊論や学力低下論の中では、「昔はよかった」式の懐古的議論が出てきやすいものである。しかしながら、本書を読めば、大学とは昔から今と同じような問題を抱えてきた存在であり、「大学というものは、放って置けばいくらでも転落の道を辿る危険性を持っている」(11頁)というのが普遍的な事実であることがわかる。

本書では主に19世紀のアメリカ、ドイツ、日本の大学でいかなる問題が持ち上がったかを振り返り、それらの事件の因果関係を探っている。「復唱(recitation)」と称して、教授が指示した教科書の一部をほぼ丸暗記し、講義中に教科書に書いてある内容についての質問を受けるという形式の退屈な試験を制度化していたアメリカの大学、教授が朗読するのを必死で書き取って、何千頁ものノートを丸暗記し、その正確さを確かめるだけの試験が大学における勉強の全てであった明治期の東大。現代の大学における退屈な講義と、暗記中心の勉強の弊害が説かれたのは、何も現代に限られたことではなかった。また、大学は教育の場か、それとも研究の場か、という古くて新しい問題もこの頃にすでに存在した。政治家や高級官僚と結託して名門大学の人事を牛耳るボス教授の存在も、まるで現代と同じである。

最も重要な論点は「アカデミック・フリーダム」についての解釈の違いである。「アカデミック・フリーダム」とはすなわち、大学教員が何の干渉も受けずに自分の研究したいことを研究し、自分の思っていることを講義で発言する自由のことだ。しかしこの自由の解釈について、アメリカとドイツでは対照をなしていた。ドイツの教授は言う。


「確かにわれわれは国家の官吏である以上(ドイツの大学はすべて国立の大学であり、大学教授は国家官吏であった)、大学の外、講義室の外で国家を批判し、政府を批判したりする行動については一定の制約がある。しかし教室の内部では話は別である。教室の内部こそいかなる権力も、いかなる干渉も及ぶべきではない。これが教室の中での自由というものである。」(102〜103頁)
ところがアメリカの教授はこう考えた。

「教室を教授個人の思想、信条の一方的宣伝、注入の場として利用することは、教職に期待されているフェアープレイの精神に反する。教師の仕事、大学の仕事は学生を一つの思想にそめあげることにあるのではない。確かに教師は誰もが自分なりの考えをもち、自分の信じる信念をもっている。しかし教師に課せられた仕事は、この世界にどれほどさまざまな考え方、思想、信条があるかを、学生にむかって公平に教えることである。そしてその一つ一つの内容がどのようなものか、それを正確に学生に理解させ、学生がそうした考え方の中から、自分なりの考え方を作り出せるよう、手助けするのが教育に期待されている役割である。」「このように大学の教師には教室内でこそ一定の制約があるが、いったん教室を離れてしまえば、後は自由である。大学の外でどのような活動をしようとも、どのような主張をしようとも、他の市民がもっているのと同じ言論の自由、信条の自由をもっている」。(119頁)
教育の場における客観性、価値中立性をアメリカの教授はより重視していることになる。確かにあらゆる価値から距離をおいて何かを語ることが果たして可能なのかという疑問は常に出る。しかし価値中立が意識から遠のくと、この頃のドイツの大学のように、学生を扇動したり、国粋主義的・人種差別的な発言を講義でする教授が数多く現れるという結果を招くこともある。「教師は教壇から予言を説くな」と言ったマックス・ウェーバーは、しかし他方で、教授個人の思想・信条を講義で宣伝することの悪魔的な魅力を正確に認識していた。

「たとえば彼は「すべての教師は自分が個人的な価値判断を押し出すと、学生たちの顔に光がさし、彼の講義を熱心にきくことを知っている。そして彼がそうするだろうという期待が、講義への出席率を非常によくさせることをも知っている」といっている。」(98頁)
アカデミックな講義にはあまり魅力を感じず、むしろ自分の人生の指針となるような「解釈」を待ち望んでいる若い大学生にとって、自身の思想・信条を前面に出す教授はカリスマ的な存在に映るのかも知れない。ナチスはこのやり方で若者たちを熱狂の渦に巻き込んだ。ウェーバーはこの危険性を鋭く見抜いていたからこそ、「教壇での禁欲」(103頁)を説いた。教育の場における教育者の思想・信条の役割もまた、論争の火種となりうる古くて新しい問題である。