谷沢永一『読書の悦楽』(PHP文庫、1998年)書評

読書の悦楽 (PHP文庫)

読書の悦楽 (PHP文庫)

本書巻末の小笠原茂による解説によると、近代文学文学史家である長谷川泉は、谷沢を評してこう言ったという。「横行した野狐禅(やこぜん)を刺殺して来た功績は大きい」(178頁)。野狐禅とは、「禅を修める人が、まださとってもいないのに、さとったつもりになってうぬぼれること。転じて一般に、生かじりでうぬぼれること、またその者」(同上)のことである。つまり、論争家である谷沢の批判は、若い研究者を恫喝し萎縮させながらしかし実際には内容のあることを言っていない学界のボスたちに向けられる。

その鉾先は、まっとうな学者には向けられていない。谷沢永一が許さなかったのは、ただ馬齢を重ね、大学の人事を左右するだけの、国文学界のボスたちである。彼らは野狐禅を唱えて、若い研究者を恫喝し、「若僧、生意気なことを言うな」とばかり、その向学心の芽を摘んでしまう。こういう光景を谷沢永一は学問の研究者として座視できなかったのである。(179頁)

そんな谷沢永一による講演と小さな文献紹介をまとめたのが本書である。第一章は「雑読学序説」。世の中にはずっと一冊の古典を読み続けて、それについての研究だけをしている人がいる。例えば一生涯『資本論』を読み続けたり、『悪の華』を読み続けたりする研究者がいる。谷沢はそのような学者を「穴熊学者」と名づけ、「この型は学者としてたいへん尊敬すべきであり、一世に屹立して後世に残るモニュメンタルな研究業績は、むしろこの穴熊学者によって達成される可能性が非常に高い」(24頁)と言う。しかしながら、このような学者の研究だけを読んでも、「或る学問の世界の学界全体の動向が、必ずしもその人の仕事には反映されない」(同上)とも言う。つまり、範囲は狭いが深く徹底的になされた研究から、その学問全体の動き、「現在ただいまの研究の状況、問題意識の曲り角」(25頁)などを知るのはほとんど不可能だということになる。さらに、穴熊学者のような「一巻の人システム」(27頁)だけでは、どうしても飽きが来るのが人情というものである。優秀な研究者はどんどん新しいテーマを見つけて研究の幅を広げている。飽きが来ないようにするには、やはり古典を精読しているばかりではダメで、有益な新刊にもどんどん手を出さないといけない。「古典精読、新刊侮蔑、そういう高尚な姿勢は、必ずや倦怠と放棄につながります。」(29頁)

第二章は「蒐書学序説」。谷沢の本探しの執念がまたすごい。書店に「絶版品切れです」と言われてもそう簡単には諦めない。しかし、そこには出版社→取次→書店と続く書籍の流通システムが抱える問題が露呈されており、感心してばかりもいられない。読書好きであり、いつか自分でも本を書きたいと思っている人にとっては、「出来れば現代日本の出版という、その方面で現実に行われている方式、各種の動向を、やっぱり或る程度は把握している必要がある」(84頁)だろう。

学問と読書についての著者の姿勢には、教えられる点が多かった。万葉学の先生である谷沢の師は、学問における「足許の草むしり」の重要性を説いたそうである。

万葉集の研究をすると言うても、すぐに誰も解釈のつかなかった、読みの通らなかった難解な歌に喰らいつくのは、これは愚の骨頂であって、学問というものは足許の草むしりから始めなさい、とにかく全く誰もが異存のない、訓も解も定まっている和歌、それに間違いがないかどうかということを再検討しなさい、そこから学問が始まると、そう教わったのであります(114頁)

これで即座に思いついたのが、研究テーマについてある本で書かれていたことである。

新聞・雑誌・テレビでよく取り上げられる問題を、論文の<主題>にしてはならない。十年、いや二十年早い。」(山内志朗『ぎりぎり合格への論文マニュアル』平凡社新書、2001年、79頁)

その理由は以下である。

現代の問題を扱う場合には、古典的な枠組みも押さえておく必要がある。先人の苦労を踏まえないと、ロクなものにならない。古典的理論の研究だけでも論文になるほどだから、そういうのを踏まえて、現代の問題を扱うのはものすごく大変である。だから、エキスパートのやる仕事なのだ。世間に現代の事件を分析している本があふれているが、それらの本がだいたいつまらないのは古典を知らないからである。現代を扱うのは、他の人の数倍の努力を必要とするのである。(山内、78頁)

自分としては、現在問題になっている事件やテーマに対する関心を失えば、古典研究までさかのぼって調べようという意欲も萎えてしまうのではないだろうかと思うのだが、いずれにせよ、先行研究を無視したアクチュアルなテーマについての研究はあまり意味がないというのは、確かにその通りだと思う。少し意味は違うかも知れないが、谷沢の恩師が言う「学問における足許の草むしり」とは、そのような地道な先行研究の精査と取ることも可能ではないか。

また宮崎市定のエッセイを評しながら、理論家が陥る落とし穴を指摘する。

最近のエッセイ(『書論』一四号)に喝破していわく、「いくら頭がよくても、むつかしい理論の大体に通暁するのは、何と言っても精力を消耗する大仕事である。そこで理論の学習がむつかしければむつかしい程、一方では事実を軽視する気持が強くなる。ここが大事な岐れ途だ。なまじ理論家などと自称していい格好をしようとせず悪い頭のままひたすら事実の真相解明に努めるのが歴史家の任務であって、中国流に言えばそれは、吾が愚を守る、ということになる」。事実を尊重せぬ怠け者に限って昔からヘリクツが多いものだ。そして宮崎市定の全著作は、その文章の雄渾と磊落によって、読者を鼓舞する効能を持つ。(162〜163頁)

自分は宮崎市定についてほとんど何も知らないが、この文章のなんとシブいことか。彼の主張が歴史家のみに言いうることではないことは、各々の学問領域に属する人自身がよくわかっていることだろう。