中野孝次『生きることと読むことと―「自己発見」の読書案内』(講談社現代新書、1994年)書評

sunchan20042004-12-27



タイトルからも明らかなように、本書は知識や情報を獲得するための読書ではなく、人生の危機から自分を救助してくれるような読書について、著者の実体験に依拠しながら書かれたものである。自分を救ってくれた本に対する著者の思い入れぶりがよく伝わってくる。


著者は知識=情報のために読んだ本の内容はすぐ忘れると言う。この情報洪水の時代に、読むべき本を取捨選択しなくてはならないのは当然だろう。しかし、この取捨選択の基準を確立するためには、かなりの無駄も覚悟しなくてはならないのではないだろうか。それに、明らかに無価値の本を除けば、何があとあと役に立つかは自分にさえ分からないのである。


細部において、著者の意見に反発を感じた箇所もある。著者はスタンダールの『パルムの僧院』の教訓から「自分のよく知らないことについて文句を唱えるのをやめた」(77頁)と言っているが、その割には、おそらくコミックなど読んだことのない著者が、コミックを最初から無価値のものと決め付けて以下のように言うのである。

拙劣な絵の連続とわずかの言葉をもって、人はどれだけのことを表現できるというのか。そんな世界はバルザックの世界の多様なゆたかさの前には、貧血した青白い映像のようなものにすぎず、すぐ消えてゆくのみだろう。(50頁)

コミック雑誌バルザックとでは、人間理解の点で月とスッポンほどの差が出てくること間違いないからである。(51頁)

また、ホフマンスタールのドイツ人批判に呼応して、著者がどっちつかずで価値観に一貫性のない日本人の姿を嘆く箇所がある。「社会が大きな組織となり、管理が強化され、均一化が求められる」(58頁)ようになった日本では、「人間と共にいるというあの安心感とよろこびがない」(同)と。これは「日本人には個性がない」「自己主張がない」といった聞き飽きた日本人評と同類のものであるが、このような軽々しい一般化は、個々の人間の精神における細かいひだまでとらえるべき文学者としては失格である。森巣博が言うように、「セキュリティ・チェーンをかけたドアの隙間からしか世界を見ない人」は、「ほんのわずかな隙間から見た世界でその国を理解し、納得し、了解し、しかも憎悪していく」『ナショナリズムの克服』63頁)のである。もっと個々の人間をよく見ろ、と言いたい。


さらに、精神的宝庫である古典は、「その国の言葉をネイティブ・ランゲージとする人間によってこそ細部の微妙なニュアンスにいたるまで、その味わいが理解されるものだろう」(123頁)という見解は、全くの時代遅れである観が否めない。ダバディ『「タンポポの国」の中の私』226頁)に出てくるオリガス博士(80年代にミッテラン大統領の日本語通訳を務め、『平家物語』をフランス語に全訳した)は、日本人よりもはるかに文学的な日本語を話すという。より重要なのは、「微妙な」という言葉の背後に「外国人には理解不可能」という無意識の前提があることである。そんなことはないというのが真実である。