井上ひさし『本の運命』(文春文庫、2000年)書評

本の運命 (文春文庫)

本の運命 (文春文庫)

「目次を睨むべし」、ツンドクの効用などなかなかユニークな私流読書術が紹介されており、早速真似してみようと思っているところだ。一貫して語り口調で本への尽きない愛情を語る本書は、本好きにとっては共感できる箇所が多々あることだろう。

著者の後輩として大学図書館の環境の劣悪さは忸怩たるものがあるが、ひょっとしたら著者の学生時代とさほど変わっていないのではという気がするのは自分だけであろうか。13万冊もの蔵書を所有していた著者がついには故郷の町役場の協力を得て独自の図書館を作ってしまうあたりは、著者には及ぶべくもないものの最近蔵書の置き場に困っている自分にとって何かしら夢を提供してくれるような物語であった。彼の本に対する愛情とあるべき図書館像を読んでいて、できることなら自分も将来自分の理想の図書館を作ってみたいと思わざるを得なかった。著者と同じく自分がこのように考えるのは、裏返せば日本の図書館の課題、量のみならず質における至らなさに対する自分の不満を暗示していると言えるだろう。図書館、特に大学図書館は「貸してやっている」「使わせてやっている」という勘違いも甚だしい認識から早く脱却すべきだろう。

著者の関心は、現在の図書館環境の不十分さから日本の国語教育の欠陥にまで至る。著者は丸谷才一の「日本の国語教育は、子供をみんな小説家にしようとしている」という言葉を引用しつつ、「『何が見えるのか』『何が書いてあるのか』という、自分が観察したことをそのまま文章で表わす練習」(135頁)をさせることなく、読書感想文によって自分が感じたことを書かせようとしていると言う。その結果、「昨日遠足に行きました。楽しかったです。」という文章しか子供は書けなくなる。感じたこと、考えたことを文章で書き表すのは大人でも難しいことであり、いきなりそれを強いられた子供は何をどう書いてよいのかわからなくなるのも至極当然であろう。感想を書かせるのではなく事実を調べさせることで、資料やデータの扱い方、百科事典や図鑑にあたることでどこからどうやって情報を集めればよいのかといったことを子供は理解できるようになり、そして「それをどう書けばいいかという、文章の機能的なところを学んでいく」(136頁)のである。そうした実践的な訓練が日本人は不足していることを著者は指摘している。

一つ自分と考えの違った点は、情報の整理方法である。著者は「書き抜き帳方式」を採用していたが、検索機能など多くの利点を考慮すればパソコンで整理するのが最も効率的だと自分は考えている。手書きでなければ記憶に残らないと著者は言うが、記憶に残らないからこそあとで情報を引き出しやすいように整理しておくのであって、忘れることを恐れる必要はないと思う。パソコンではキーワードで検索することもできる。もちろん著者や本のタイトルでも検索可能だ。全てパソコンでやってしまうと情報を持ち歩くことができないという欠点はあるが、梅棹忠夫の「カード方式」を併用している自分としては一応その欠点も補うことができていると思う。これは個人の好みや目的の差であろうから、一概に一般化できるものではないのかも知れないが。